「宗三」と「京兆」

戦国期の人物や事績に関する資料や文献を読んでいると、時折難読語句を見かけます。松永久秀との関連は薄いのですが、ここでは三好「宗三」と細川「京兆」家の読みについて、少々書いてみたいと思います。

 
「宗三」と「京兆」の読み

 この稿のタイトルから三好宗三と細川京兆家についてのコラムを期待した方には申し訳ないが、ここでは内容ではなく「読み」にスポットを当ててみたい。

 まず三好宗三。読みだけでは寂しいので、初めに人物について少しだけ触れておくと、諱は政長。宗三は入道名で半隠斎とも称し、また可竹軒と号した。通称は神五郎、越後守。勝時の子(勝長の弟)で細川晴元の側近として活躍、摂津榎並城主を務めた。天文十八年六月、摂津江口の戦いで三好長慶兄弟勢に敗れ討死した。武野紹鴎門下の茶人としても知られる人物である。

三好宗三関連資料  「宗三」の読みについては多くの書が「そうさん」とルビを振っているが、宗三の墓所である堺の善長寺に建てられた案内板には「しゅうぞう」とある(画像クリックで案内板画像へリンク)。また、「そうぞう」と読んでも不思議ではない。
 左の合成画像上部は善長寺よりご提供頂いた資料の一部で、ここでは法名の一部としてではあるが「むねみつ」と読んでいる。一方、下半分(英文・堺市制作の外国人向け観光案内資料)では少し見にくいかもしれないが、寺の前に立てられた案内板と同じく「Shuzo」とある。
 このような様々な読み方があるのは、「宗」の字が宗派によって読み方が異なるという点も一つの理由なのだが、これを言い出すと話がこじれるので結論を急ぐことにする。
 
 人物や事績についての正確な読みを知るためには、後世に編纂された文献ではなく、出来るだけ当時に近い文書や日記において、そうとわかる記録を調べる必要がある。そこで色々と資料を漁ってみたところ、以下の記述を見つけた。
 
(略)廿八日に京都へ打廻人数ソウサン香サイ衆高畠ヨ十郎マツラ三好トノヽヨリキ左馬允内各五千斗(略)(『享禄天文之記』天文十六年四月条)
 
 この直後には「宗サン」という記述も見られ、当時の状況から「ソウサン」は三好政長を指していることは明らかである。
 濁って読む場合も考えられなくはないが、とりあえず「宗三」は「そうさん」と読んでおくのが良いようである。

 次に細川京兆家であるが、これは近畿管領職にあった細川氏宗家の呼称である。「京兆」の読みについても、諸書に「きょうちょう」と「けいちょう」の二通りの読みが見られ、すっきりしない。しかし、これについては以下の記述がある。
 
「九月四日ヨリケイてう、与一事大辺ノ躰、とくせい事、七日ニタクサウウラカヱルト云々」(『宗典僧正記』永正元年条)
 
 「ケイてう」が京兆のことで、人物の代名詞として使用する場合は時代によって異なるが、この場合は管領細川政元を指す。ちなみに「与一」とは政元に仕えた摂津守護代・薬師寺元一(この時は継嗣問題で政元と対立)、「タクサウ」とは赤沢朝経(沢蔵軒宗益)のことである。当時の状況は『細川両家記』に詳しいが、ここでは省略する。
 ということで、細川「京兆」家は「けいちょう」と読むべきであろう。
 
※文責:Masa 2004年12月10日作成 本稿の無断転載及び引用を禁じます。

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