御斎峠
(滋賀県甲賀市/三重県伊賀市)
現在の御斎峠から見た上野市内

御斎峠跡 御斎峠(おとぎとうげ)

 御斎峠は「音聞峠」と書くものもあり、「おとき」と濁らずに読ませるものもある。標高は630m、滋賀・三重両県境に位置し、その名は鎌倉時代に臨済禅の高僧夢窓国師が伊賀三田の空鉢山寺に来られたときに、村人がここで斎(とき=食事の接待)をあげたことに由来するとのこと。
 また、小説などでは、服部半蔵がここへ先行して狼煙を上げて忍びの者を集め、家康一行がここへ到着したときには、伊賀・甲賀忍者三百名が勢揃いしていたという。


丸柱郷  しかし、ここで問題がある。それは、まず御斎峠の位置である。信楽小川から御斎峠を経由すると、かなり遠回りになるのである。普通なら小川から神山(こうやま)を経て丸柱(写真左)から柘植へと向かう方が早く、現に『大業廣記』では多羅尾光俊は病気であったため、一族の丸柱宮内の館で一泊したとされ、『石川忠総留書』でも「当村土豪宮田某の援助を得て」とあり、丸柱経由説にも説得力がある。しかし、このあたりは特定が難しいため、この稿では伊賀の様子を窺うため御斎峠に出、それから道を大沢方面にとり、間道づたいに比曽河内(ひそがち=現上野市諏訪)から音羽へ向かったものとさせていただく。

 次に服部半蔵正成のこと。ある文献では服部半蔵が多羅尾光俊に連絡し、御斎峠で伊賀・甲賀忍者三百名を集め、白子までの道中に大活躍したとあるが、これはどうだろうか。宇治田原山口城の山口甚介秀康は多羅尾光俊の実子である。半蔵が連絡するまでもなく、甚介秀康から報せたとする方が、より現実的に思われるのだが。それに半蔵は三河岡崎生まれなので、伊賀の山中を自由自在に案内できたかどうか、少し疑問に感じる。やはりこれは、伊賀侍の柘植三之丞清広一党あたりがその務めを果たしたと考える方が自然ではないだろうか。

 服部半蔵といえば家康と同年生まれで、その初陣は三河宇土城攻めとされている。この戦いで半蔵は伊賀者を率いて夜襲をかけ、褒美として槍を下賜されたというのだが、この戦いは甚だ疑問というか、不可解な時期に行われているのである。実はこの一連の取材で宇土城(上郷城)へも足を伸ばしたこともあり、これまたおまけとして こちら にUPしておくので、興味のある方は御覧頂きたい。

 話が少しそれたが、ともかく一行は上記の間道をたどって、音羽郷へと向かった。



NEXT  TOP  HOME