河内津田〜尊延寺
(大阪府枚方市津田〜尊延寺)
現在の尊延寺付近

JR河内津田駅 河内津田〜尊延寺(そんえんじ)

 家康一行は旧道を通過したと思われるが、上の写真は国道307号線沿いの尊延寺バス停付近、右はJR片町線津田駅である。現在の道筋では、津田駅西側を北上し、程なく交差する国道307号線を東へ折れると、尊延寺を経由して田辺方面へと道は続く。

 さて、三河帰還にあたり、「案内役」長谷川秀一が大活躍をした。彼はその顔の広さを活かして大和の国人十市玄蕃允一党や、宇治田原の山口城主山口甚介秀康、呉服社の別当服部美濃守貞信らに救援を求める使者を発した。そして津田主水頭に取りあえずの道案内を命じ、急遽道を変えて宇治田原へと家康を導いたのである。
 この服部貞信という人物は『寛政重修諸家譜』によると、伊賀平左衛門家長の末孫すなわち遠縁ではあるが服部半蔵と同族で通称左兵衛、もと伊賀国阿拜(あへ)郡服部村に住み呉羽社の神職に就いていたが、故あって山城宇治田原に移り住んだという人物である。一行の中には服部半蔵もおり、同家譜に「貞信山中を郷導すべきむね仰をかうぶり」ともあることから、貞信には半蔵が家康の意を伺った上で連絡を取ったのかもしれない。

 ところで、本能寺の変は六月二日の早暁に起きているが、本能寺から飯盛山まで、距離にして約九里。どう馬を飛ばしても、二刻以上はかかる距離である。そして飯盛山西麓から、次のページにある普賢寺谷を越えて草内の渡しに至るまではおよそ六里、そこから郷ノ口の山口城まで二里。山口城到着は六月三日巳の刻(午前十時)とあることから逆算すると、三日辰の刻前までには草内の渡しを越えているはず。つまり、不休不眠で歩いたとしても、常識的には飯盛山を二日の夜には出発していることになる。
 ということは、飯盛山付近で変報を受けたのは二日の未の刻(午後2時)くらいとして、家康一行は飯盛山付近の寺などに入って周囲の状況を探索させ、また善後策を協議したのではないか。そして、この間に穴山主従は別行動を取ることに決し、長谷川秀一は前述の大和十市氏や山口甚介らに急使を飛ばしたものと思われる。



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