上州の小領主上泉氏

ここでは剣聖上泉信綱の誕生から、山内上杉家の重鎮・上野箕輪城主長野業正に属した一国人衆としての彼に少し触れてみることにします。


剣聖誕生

 彼は永正五(1508)年に武蔵守義綱(憲綱とも)の二男として、上野大胡城の出城のひとつである同国桂萱郷上泉城に生まれた。この上泉城は現在の群馬県前橋市にある。元服までは源五郎を名乗り、のち秀綱・信綱と称するようになるが、当面秀綱の名で書き進めていくことにする。
 この永正五年という年の各国の情勢を見てみると、近畿では流浪していた前将軍義稙が細川高国・畠山尚順らに迎えられて泉州堺に入り、ほどなく前将軍義澄を近江に追い出した上、七月一日付で将軍位に還補され、義澄は将軍職を解かれるという事が起きている。また甲斐では武田信虎が叔父の大井信恵父子らと甲斐守護職に絡む同族争いを起こしている。同年生まれの武将としては足利晴氏・小山高朝・蒲生賢秀らがおり、大内義隆・里見義堯(1507年生)らも秀綱と同世代の武将である。

 さて上泉家と剣術との関わりであるが、彼の祖父時秀は天真正伝香取神道流の飯篠長威斎家直や陰流の祖愛洲移香斎久忠に、父義綱は長威斎門下で鹿島新当流の祖松本備前守また愛洲移香斎について修行をしたという記録がある。そして秀綱も、父と同じ松本備前守に入門して修行に励み、十七歳の若さで天真正伝神道流の奥義を授けられた。

 享禄三(1530)年、秀綱23歳の時のこと、祖父時秀が永眠する直前に愛洲移香斎が上泉城を訪れた。おそらくこの時移香斎は秀綱と立ち会い、その非凡な才能を見て取り、我が陰流を継ぐに足りる人物と思い極めたに違いない。この後どういう稽古があったかは定かではないが、翌年移香斎は秀綱に陰流の伝書・秘巻・太刀一腰など全てを伝え、飄然と歴史から姿を消した。このあたり、後に武州小金原で一刀流の祖・伊東一刀斎が、兄弟子善鬼との決闘に勝った御子神典膳(後の小野忠明)に全てを伝えたのち姿を消したのとよく似ている。
 余談だが、この享禄三年1月には、後に秀綱とも関わってくる人物が越後春日山城に生まれている。幼名を虎千代といい、父は長尾為景、母は古志長尾顕吉の娘・虎御前。後に合戦の神とまで言われた戦国の巨星・上杉謙信である。

 ともあれ、ここに秀綱は陰流正統を愛洲移香斎久忠から受け継いだ。享禄四(1531)年のことである。


秀綱と小田原北条氏

 さてそのころ関東の情勢は動きつつあった。もともと大胡城つまり秀綱の本家筋は扇谷上杉家の傘下にあったらしいが、扇谷上杉朝興が北条氏綱に江戸城を奪取されて以来、ついに奪回を果たせず天文六(1537)年四月に死去した際に扇谷上杉家(13歳の朝定が家督を嗣いだ)を見限って江戸へ移り、北条氏の傘下に入ったという。ただ大胡城は一族の者が守り、依然として扇谷上杉氏に属していたというので、上泉義綱・秀綱がその指揮を執り家中の統制を行っていたのかもしれない。

 そして天文14(1545)年9月、山内上杉憲政は扇谷上杉朝定とともに東国勢六万五千を率いて北条方の勇将北条綱成の守る武蔵河越城を包囲する。程なく古河公方足利晴氏も一万五千の軍を率いてこれに合流、計8万の大軍で河越城を囲み北条氏康に宣戦布告するという事件が起きる。
 これに対して翌年4月、北条氏康は河越城救援に向け小田原を発し、武蔵三ツ木に布陣した。軍勢はわずか八千。しかし4月20日、信じられないことが起こった。氏康が上杉憲政・朝定・足利晴氏連合軍を謀略により油断させておいて突如夜襲をかけ撃破、扇谷上杉朝定は戦死(享年22歳)、憲政は上野平井城に、晴氏は古河に奔るという結末を迎えたのである。これを世に「河越夜戦」と呼び、戦国三大奇襲戦の一つとして後世に語り継がれてゆくことになる。

 秀綱は享禄元(1528)年に妻を娶っているが、その妻というのが大森式部少輔泰頼の娘という。この泰頼はかつて小田原城主であり、明応四(1495)年に北条早雲の謀略により城を奪われたという大森実頼・藤頼親子の子孫である。そしてこの妻は秀胤を生んだものの早世したため、秀綱は後妻を持つことになるのだが、その後妻というのがなんと先述の勇将北条綱成の娘なのである。


上州の小領主上泉氏

 この河越夜戦以来、山内上杉家の声望は地に墜ち、関東は本格的な北条氏康の侵攻にさらされることになる。小領主たちは争って氏康の傘下に馳せ参じ、上杉家はもはや風前の灯火であった。しかし、この情勢の中でも一貫して斜陽の上杉憲政を支え続けた名将がいた。箕輪城主・長野業正である。
 秀綱はこの長野業正に属して活躍した。長野家の勇将藤井豊後守友忠や白川満勝らと並び「長野十六槍」の一人に挙げられ、さらに「上野一本槍」の栄えある称号を得ていることからも、上杉憲政の麾下として活躍したことは事実であろう。では、その敵である小田原北条氏との関係はどうなったのであろうか。

 ここに戦国の小領主としてのどうにもならない哀しさがある。秀綱個人の思惑はともかく、家臣や領民を戦乱から守るため他の国人衆とも歩調を合わせ、「今日は上杉、明日は北条」といった、悪く言えば「恥も外聞もない日和見的進退」をせざるを得なかったであろうことは想像に難くない。事実、関東の国人衆はのちに上杉謙信と北条氏康・氏政の間で離合を繰り返すのである。そしてこういうことを繰り返すうち、秀綱は強い厭世観を持ったのではないかと思われる。箕輪落城・長野家滅亡を機に、秀綱が地位も領土も棄てて一武芸者として生きる道を選んだ最大の要因は、戦国の世そのものだったような気がしてならない。



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