味わい深いエピソード

ここでは自由の身となった信綱が、伊勢の北畠具教のもとに向かう途中に遭遇したと思われる有名なエピソードをご紹介します。


一路、伊勢へ

 廻国修行に出た信綱一行が京に至るまでにとった道筋にも二説ある。中山道を経由したというものと、東海道を経由したとするものである。ここでは先に述べた小田原北条氏との関わりからも、東海道を経由したものとして話を進めていくことにする。小田原に立ち寄った信綱は、氏康や綱成らと再開したであろう。永禄六(1563)年のことだったという。
 小田原を出た信綱一行は、当然の事ながら、今川・松平領を通過することになるが、この年は桶狭間の戦いで今川家から独立し、前年織田信長と同盟を結んだ松平元康が、長男信康と信長の娘徳姫との婚約も済ませて家康と改名、三河平定に向け始動した年である。こういう中、信綱らは一路伊勢へと向かった。京へ上る前にどうしても会っておきたい人物がいたのである。その人の名を北畠具教という。

 具教は代々伊勢国司を務めた名族北畠晴具の子で、伊勢国司北畠家最後の当主となる。この年の7月(9月とも)には父晴具が享年61歳で歿しており、ちょうど家督を嗣いだ頃である。また彼は塚原卜伝門下の剣豪大名として名高く、卜伝から「唯授一人」とされる新当流秘伝の太刀「一の太刀」の奥義を伝授されている。しかもト伝が死に際して、嫡男彦四郎に「北畠卿より伝授を受けよ」と遺言したとも伝えられているので、剣技はもとより人格も相当立派な大名であったと思われる。
 また、彼は「剣豪将軍」と呼ばれた十三代将軍足利義輝とも交わりがあったと伝えられており、享禄元(1528)年生まれの彼はこの時36歳、ちょうど「武芸者」としても脂の乗っている時期であった。


味わい深いエピソード

 さて、伊勢へ向かう前に信綱に一つの非常に有名な味わい深いエピソードがある。もともと信綱にはエピソードが少なく、こういった類のものはこれ一つかもしれない。ご存じの方も多いと思うが、紹介しておくことにする。

 尾張あたりのとある村にさしかかったとき、その村では大騒ぎをしていた。疋田文五郎が村人に事情を尋ねたところ、悪事を働いた浪人者を村人が捕らえようとした途端に、村の幼い子供を人質に取って小屋に立て籠もってしまい、近づこうとすると子供を刺し殺そうとする。子供を人質に取られた両親は狂ったように泣き叫ぶばかり、さてどうしたものかと困り果てているという。
 これを聞いた信綱は一瞬表情を曇らせたが、「よしよし、私が取り戻してあげよう」と、たまたま居合わせた僧に袈裟を借り受け、念の入ったことに頭髪まで綺麗に剃ってしまった。文五郎や神後伊豆も、お師匠は一体何をするのかと思いきや、信綱は村人に握り飯を二つこしらえさせ、それを持って浪人者の籠もる小屋へと向かった。この後のやりとりは次のような感じではなかったろうか。

 浪人者は破れかぶれになっていた。信綱が小屋に近づくと、
「来るな!そこから一歩でも近づくと子供の命はないぞ」
 と叫び、子供の喉元に白刃を突きつけて威嚇する。
「なにを怯えておる、わしは見てのごとく通りすがりの僧じゃ。ほれ、握り飯を持って参った」
「うるさい!何だかんだと言っても俺を捕らえに来たのであろうが」
「そうではない。ただ、その子に罪はない。握り飯を食わせてやってはもらえぬか」
 昨日来、飯を一粒も食っていなかった浪人者はさすがに空腹を思い出したのであろう、信綱にこう言った。ただし、子供の喉には白刃を突きつけたままであるが。
「よし、ならばその握り飯を抛り投げろ。それ以上近づいたら子供の命はないぞ」
「わかったわかった。二つ進ぜるほどに、必ず子供に一つは食わせてくだされや」
 あまりの空腹と信綱の人柄から、やや態度を軟化させた浪人者は、子供を相変わらず抱きかかえたまま戸口に姿を見せた。
「では抛りますぞ、ちゃんと受けなされや」
 信綱は一つの握り飯を浪人者に向かって抛り投げた。そして間、髪を入れず二個目の握り飯をも抛り投げた。浪人者は子供を左手に抱え、右手でその喉元に白刃を突きつけていたのだが、一個目の握り飯は子供を抱えた左手を使って器用に受けた。しかし、続いて投げられた二個目を受け取る際、思わず右手の刀を投げ捨ててこれを受けたのだが、これこそ信綱の思うつぼであった。
 浪人者が刀を手放した一瞬の隙を突いた信綱は、あっという間に飛びかかって彼を組み伏せてしまった。

 村人達の喜びは非常なものであった。信綱に袈裟を貸し与えた僧もこれにはいたく感じ入り、そのまま袈裟を信綱に贈ったという。なお、この浪人者がその後どうなったかは知らない。


北畠具教との出会い

 伊勢に入った信綱一行は、早速「太ノ御所」と呼ばれる北畠具教の居館に向かった。ここではじめて両者は会話を交わすのだが、具教は天文二十三(1554)年にすでに従三位権中納言に叙せられており、本来なら国を棄てた信綱程度の身分ではとうてい不可能だったであろう。しかし「剣術」という武芸が、身分の差を超えて両者の出会いの場を作らしめた。

 二人は剣術談義に花を咲かせたであろう。そして、その時の信綱の顔はきっと輝いていたに違いない。信綱は20歳年下の具教に余すところなく自分の剣技を披露した。具教も相当な遣い手である。信綱の技が尋常でないことを即座に見抜き、感心するとともに「ぜひ会ってみられよ」と、大和にいる二人の人物を紹介した。宝蔵院胤栄と柳生宗厳である。
 宝蔵院胤栄は奈良興福寺の塔頭(たっちゅう)宝蔵院に籍を置く覚禅坊と呼ばれる荒法師で槍術に優れ、後に宝蔵院流槍術の祖となる人物である。一方、柳生宗厳は中条流・新当流の遣い手で、当時「畿内随一」と評判の剣豪武将であった。この柳生宗厳との出会いが後に新陰流を大きく飛翔させることになるのだが、この時点では信綱にはそんなことは知るよしもない。



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