雑賀衆と石山本願寺

戦国期の紀州雑賀(さいか)荘(現和歌山県和歌山市)には、雑賀衆の頭領の一人として有名な鈴木一族がいました。この鈴木一族は本願寺に加担し、織田信長と十年におよぶ石山合戦を繰り広げました。ここでは雑賀衆と本願寺の関係に少し触れてみることにします。


雑賀衆とは

雑賀五緘分布図  雑賀衆とは、紀ノ川下流域に拡がる一帯(今の和歌山市と海南市の一部を含む地域)を本拠とする地域連合惣的な集団の総称で、戦国期には優れた水軍と多量の鉄炮を持ち、その高い戦闘力から「雑賀を制する者全国を制す」と呼ばれるほどであった。
 雑賀衆の構成は、五緘(からみ=「搦・組」とも書く)と呼ばれる雑賀荘・十ヶ郷・宮(社家)郷・中郷・南(三上)郷の各惣から成り、それぞれに統率者が存在し、合議制による自治を進めていた。また、雑賀衆は一枚岩の強固な団結により織田信長と戦ったと思われがちだが、実際はそうではなく、実に複雑な行動をとっているのである。

 その理由は大きく分けて二つある。一つは宗教の問題である。浄土真宗の開祖当時は紀州全体で5ヶ寺しかなかったのが、蓮如上人の時代には雑賀荘だけで43ヶ寺、紀州全体で64ヶ寺になり、顕如上人の時代になると雑賀荘だけで96ヶ寺、紀州全体では146ヶ寺という爆発的な広がりを見せるが、これは主に雑賀荘と十ヶ郷におけるものであり、他の「三緘」と呼ばれる宮(社家)郷・中郷・南(三上)郷では新義真言宗・根来寺の影響が強い面がある。
 つまり、雑賀衆=浄土真宗(一向宗)とは簡単に結びつけるわけにはいかず、実際「雑賀三緘衆」は根来衆と行動を共にすることも多かったのである。これは一部の根来衆にも言えることで、雑賀衆と行動を共にする場合もあったことから、ますます外からは「傭兵集団」のイメージで見られていたのであろう。
 第二は、その立地から来る生活経済基盤の違いである。海に面した場所を本拠とする雑賀荘・十ヶ郷は「海賊門徒」と呼ばれていたように強力な水軍力を持っていたことから、漁や薩摩などとの交易でその財源を支えていた。『昔阿波物語』にも「紀州の者は、土佐前を船に乗り、さつまあきない計仕る」という文言が見える。これに対してやや内陸部に位置する「雑賀三緘衆」には水軍力がなく、その代わりに肥沃な土壌からの農業生産収入がその主な財源であった。加えて何より位置的に根来寺に近かったことから、根来衆と交流があり行動を共にした場合が多かったようである。

 そして「雑賀鉢」の鉄兜で知られるように、雑賀の地には高度な鉄の鍛造技術があった可能性が高いことから、根来衆と協力して鉄炮の所有数を増やしていったのではないだろうか。また雑賀衆は、前述のように交易や海賊行為もしていたであろうから、金銭的には比較的裕福だったと見られ、堺あるいは薩摩などから買い付けたものも合わせ、数千挺の鉄炮を揃えていったのではないかと推測される。


鈴木一族と石山本願寺

 写真は現在の雑賀崎
現在の雑賀崎  戦国期の雑賀衆の中で著名な人物はというと、鈴木氏・土橋(つちはし)氏・太田氏らの名前が挙げられるが、やはりその中でも佐(左)太夫率いる鈴木氏が筆頭であろう。そこで、鈴木氏について少し述べてみよう。

 鈴木氏は紀伊北部の土豪で、佐(左)太夫のとき和歌浦妙見山に雑賀城を築いてそこを本拠とした。鈴木氏の祖先は熊野八庄司の一族・鈴木庄司であると思われ、熊野三苗の一つでもある。その家紋には、熊野の神鳥で神武天皇東征時にその道案内をしたと伝えられる、三本足の八咫烏(やたがらす)が使われている。また『紀州七郡地士名寄帳』によると、古くは「鈴置」と書いたが、中世になって「鈴木」に改めたとある。一説によると、現在の鈴木姓の諸氏は、この熊野鈴木氏をもってそのルーツとするともいう。

 石山合戦が終結し、顕如上人が石山の地を明け渡して紀州落ちしてきたときに自領の鷺森(さぎのもり)道場に迎えたり、顕如の子・教如上人を雑賀崎の洞窟に匿ったりしていることからも、鈴木氏が熱心な浄土真宗の信者であったことが窺える。なお、鷺森道場の主殿は天正二(1574)年に建てられたもので、場所は和歌山市鷺森(現在の南海和歌山市駅東側)にあったのだが、昭和二十(1945)年7月9日の空襲で全焼した(現在は再築され本願寺鷺の森別院となっている)。洞窟の方は「鷹ノ巣洞窟」または「上人洞窟」と呼ばれ、雑賀崎突端の高さ80mにも及ぶ断崖絶壁の蔭にあり、今では和歌山県の重要文化財として天然記念物に指定されている。
 そして、本願寺顕如と織田信長の石山戦争では、複雑な動きをとった他の雑賀衆や根来衆とは一線を画し、鈴木一族は一貫して本願寺方に加勢して戦い抜くのである。また孫一道場蓮乗寺には、危機に直面して信徒に決起を促す顕如上人直筆の書状が残っていることからも、本願寺も鈴木一族にはかなり信頼を寄せていたものと思われる。

 鈴木佐太夫には三人の子があったとされるが、不詳である。重朝・重秀・重次・義兼などの名が挙げられるが、一部同一人物である可能性も高く、生没年なども含めてその実体はよくわかっていない。ただ言えることは、佐太夫が本願寺に加担して石山合戦に兵を送り、その鉄炮の威力で織田信長軍をさんざんに苦しめたことは間違いない。そしてその鉄炮集団を率いて活躍した頭領の名を「雑賀孫一」という。

 雑賀孫一については別稿で詳しく述べるので、ここではこれ以上触れないが、雑賀衆の名を全国に知らしめたのは孫一であると言っても過言ではない。



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