戦国 "Who am I ?"

マニア編その3


 さて、3番手はわしか。わしは皆のイメージするような戦国武将ではないが、錚々たる方々にお仕えしてきてのう。ま、いわゆる「変わり種」的な存在かの。では語ろうか。

 わしは永正十七年に中国地方のある国で生まれたんじゃが、わしよりもご先祖様が超有名でのう。その話をした方がわかりやすかろう。
 そのお方はわしを遡ること十一代、つまりわしの生きておった時代より二世紀ほど前のことじゃ。そのお方は当時の天皇にお味方して朝敵を討伐してのう、一時はまぎれもない国民的英雄じゃったが、後にある武将が叛乱を起こしての。その人物との戦いで敗れて自害なされたんじゃ。これで朝敵の汚名を着せられ、ために子孫は素性を隠して諸国に散り、ひっそりと周囲を気にしながら生き延びておったそうな。

 それはさておき、わしは十七の歳で京に上り、色々な勉学の道を学んだぞな。和歌は三条西実隆公に、書道は飯尾常房殿に、連歌は宗牧殿、蹴鞠は飛鳥井殿、鼓は観世殿、武家故実は小笠原殿と伊勢殿。今になってみると、ようもまあこれだけ頑張ったものじゃのう。そして、将軍義輝公にお仕えしたんじゃよ。
 その後わしは台頭してきたさるお大名のご家老に仕えたのじゃが、色々な道に精通しておったのが幸いしてか、時の天皇にもお目をかけていただいてのう。勅命により『庭訓往来』や『貞永式目』を書写して献上したこともあったわい。やや手前味噌じゃが、これはわし一代の誉れじゃよ。ただ時代の流れは急でのう、わしは程なく当時日の出の勢いのさる御仁にお仕えすることになるのじゃが、この御仁がまたとんでもなく忙しいお方でのう。一夜のうちに百通ほども文書を書かされたこともあったわい。その後天正四年には剃髪しての、以後は「坊主衆」とか呼ばれておったかのう。

 しかしその御仁も、奇禍に遭われてあっという間に亡くなられてしもうて。わしはすぐ主人を変えたのじゃが、あのときはもう賭けじゃったな。幸いにわしの選んだ新主人殿が天下をお取りになられたから良かったようなものの、一歩間違えばいくらわしのような人物じゃとて破滅じゃからな。
 新しい主人殿にも目をかけていただいて、わしの晩年は比較的穏やかじゃったかのう。周りでは少し騒がしくもあったが、わしも歳じゃったし、軍勢を率いて一仕事というようなことはせいでもよかったでの。

 おや、もう終わりかの。ここはマニア級じゃからヒントは出せんが、一つだけおまけじゃ。わしの没年は慶長元年一月十一日、享年七十七歳じゃ。ではみなも達者でのう。


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