考証・茶々逆修

奈良県生駒郡平群町北部に今もなお残る、一つの石仏。今までさほど気にされてはいなかったこの石仏が、実は大和平群郡における左近の動きを捉える一つの傍証となる可能性を秘めています。


逆修とは

 逆修・・・一般にはあまり目にすることもないこの語句は「げきしゅう」と読む(注1)。 これは、その人物を生前に供養することによって、死後にその縁者が供養するよりも七倍も功徳(くどく)があるとされる信仰のことで、大和に限らずこの時代の各地に散見される風習である。

茶々逆修  奈良県生駒郡平群町の北部に椣原(しではら)山金勝寺という寺があるのだが、境内奥の高所にある本堂の左手に岩肌が露出している部分があり、そこには「磨崖仏(まがいぶつ)」と呼ばれる、鎌倉時代から江戸初期にかけて造られた色々な石造物が、岩盤に彫り込まれている。
 その石造物群の向かって右下に美しい姿の地蔵尊が彫られている(=写真)のだが、その上には一文字に溝が掘られており、雨除けの庇(ひさし)をはめ込んでいたと思われる跡が確認される。
 石仏の大きさは高さ88cm×幅47cm×仏身70cmで、右側には「茶々逆修」、左側には「天正十二二年丙戌卯月廿四日」と刻まれているのだが、「天正十二二年」とは天正十四(1586)年のことで、要はこの逆修仏が天正十四年四月二十四日に造られたことを表している。(画像クリックで拡大画像あり)

 地元の高名な郷土史研究家・塚信一氏(故人)は、この石仏の銘文から、豊臣家が大坂城や郡山城の築城に際し、建築用材として暗(くらがり)峠から櫟原(いちはら)一帯の巨木を切り出してその用に宛てたという伝承を引き合いに、豊臣家からその対価として下賜された金銀によって、淀君(茶々姫)の生前供養として造られた地蔵石仏であろうと推測され、地元では今までそのように考えられていた。

 その理由として、この逆修仏が岩肌の「特等席」にあり、他とは区別され庇まで付けられていた形跡があることが挙げられ、それ相応な地位にある人物のものであることは疑いのないところである。ただ地元領民にとってみれば、淀君ほどの人物になると、このような「共同」の場にではなく単独で逆修仏を造る方が相応しいとも思われ、この点でひょっとすると別人を供養したものではないだろうかと考えたわけである。
 ところが、島左近の妻の名も「御ちゃちゃ」であったことから、もしやこれは左近の妻に対する逆修仏ではないかと思って少し調べてみることにしたのだが、調べを進めていくにつれ、これがまんざら捨てたものではないことが明らかとなってきたのである。
 もちろん塚先生も、左近の妻の名が「御ちゃちゃ」であることぐらいは重々ご承知である。ではなぜ今までこの事に注目されなかったかであるが、それは左近が筒井順慶の没後、定次の伊賀転封とともに大和を去ったという事実があり、この逆修仏はその後で作られたものだったからである。

 しかし、この説を提起できる理由が左近の「伊賀行き」に隠されていた。
注1:「ぎゃくしゅ」とも読むが、地元の呼び方を優先させていただいた。


大和に残った島氏

 天正十二(1584)年八月十一日、筒井順慶が三十六歳の若さで病歿すると、翌十三年閏八月十八日、跡を嗣いだ順慶の養子定次は大和から伊賀に国替えを命じられて上野城主となった。ここで筒井家の家臣たちは二分され、伊賀へ行く者もあれば大和に残って秀長に仕える者もいた。そして左近は森・松倉氏らとともに伊賀へ移っていった家臣のうちの一人であった。
 さて、左近は伊賀ではどういう位置にいたのか。『伊乱記』(注1)・『新編伊賀地誌』等の伊賀側の資料によると、左近は木興(きこ)(現上野市木興町)・久米村(同久米町)などで二千石を領し、上野城代を務めたという。そして隣接する浅宇田(あそだ)(現上野市守田町一帯)を領する中坊飛騨守と田に引く水のことで争いを起こして伊賀を退去するまで、定次に仕えていたとされている。むろん異説もあり、これが史実と断定するわけにはいかないのだが、とりあえず注目していただきたいのは左近の石高である。同時に伊賀へ赴いた松倉氏は名張(簗瀬城)で八千石、岸田氏は阿保(あお)で三千石である。これに比べて筒井家の筆頭重臣として平群谷一円で一万石を領し、五千石相当の在地郷士与力を麾下に従えたとされる「一万五千石格」の左近が伊賀で二千石とは、どうも合点がいかない。

 ところで、『大和志料』平群郡椿井城の項に以下のように記載されている。

享保九年郡山領分明細帳筒井諸記所引曰椿井村・・・島左近友保、城池不詳、島左近友之、城跡村中并山々三ヶ所ニ御座候・・・
和州高付帳同記所引曰平群郡 大将島大和守清澄 同左近清勝 文禄改高 一四百七石八斗六升七合椿井村島大和守 一七十七石八斗三升五合椿村島左近

 享保九年とは1724年で、世は八代将軍吉宗の治世である。この時期に至ってなぜ平群郡に「島左近」はじめ島姓の人物がいるのだろうか。島氏は関ヶ原で左近の戦死とともに滅びたはずではなかったのか。

 結論を先に言うと、左近は大和平群郡の領土はそのままに伊賀へ赴いたのではないか。秀長の支配下である本領の平群谷には一族を残して作主権を維持し、与力的な性格をもって定次に仕えた可能性が考えられる。とすると、天正十四年四月の時点では、左近の妻「御ちゃちゃ」はまだ平群郡に居住していても何ら不思議ではないのである。例えば、伊賀へ移った筒井家臣の稲地助次郎は、定次のもとで上野城下近郊の服部郷・高畑郷など数ヶ所の代官に任じていたが、筒井氏没落の後には故地の平群郡五百井村(現生駒郡斑鳩町大字五百井)に戻って帰農している事実があり、大和の国人でもとから平群谷に所領を持つ島氏も、平群谷には同族の者が残って作主権を維持し、依然地主として在地していたものとみてよいのである。(『奈良県史11・大和武士』)
 いや、もう一歩踏み込むと、左近は秀長の下から定次を補佐するために派遣されたのではないかとも思うのである。定次は伊賀移封とともに羽柴侍従に任ぜられていることから、信長の娘を妻に持つ定次は豊臣一族に準じ、また大納言秀長の片腕として位置づけられていたと考えられるが、この関係なら定次が将たる器に欠けていたときは、秀長はいつでも左近を呼び戻せるのである。むろん、背後に秀吉の意図があることは想像に難くない。なお、この件については別稿にて考証する予定につき、今はこれ以上は触れない。

 そして左近が三成に仕えた際にも、石高は不明だが一族は大和平群郡および伊賀にも残ったと思われ(注2)、その平群における後裔が先述の大和守清澄・左近清勝ではないだろうか。「大和守」の官称にやや抵抗は残るが、「清」の字は左近清興の一族である一つの傍証とも考えられる。左近の子の一人である「持宝院陵尊房」なる人物が還俗して家を嗣いだとも考えられないこともないが、これは現段階では推測の域を出ない。
注1:今回の調査では『参考伊乱記』および『校正伊乱記』を参照した。
注2:上野市西蓮寺の過去帳に「慶長十一年六月三日 清閑童子 上ノ城ノ嶋ノ太郎左衛門殿子息」など、嶋氏関連の名が見える。


金勝寺再興と茶々逆修

金勝寺  話を金勝寺に戻す。この椣原山金勝寺は天平十八(746)年に行基菩薩により創建され、聖武天皇の勅許を得て境内四町四方・寺領七百石を賜ったと伝えられる名刹であった(=写真)。最盛期には十間四面の金堂を始め、大講堂・阿弥陀堂・護摩堂・三重塔等の他に三十六の塔頭(たっちゅう)を持つ大寺院だったという。しかし戦国の風雲は避け得ず、永禄二(1559)年に大和を抑えた松永久秀の兵火によって天正年間前半に焼き払われ、寺領も松永方に没収されてしまう。
 その後本堂や護摩堂等が再建され、塔頭もやがて六坊まで復興するのだが、これを行ったのが平群郡の領主島氏すなわち左近ではないかと推定されるのである。「推定される」というのはそれを記した資料がない(金勝寺のお話によると、焼失したそうである)ためだが、久秀の滅んだ天正五年十月以降は、信長の指図により筒井順慶が大和平静化に向け精力的に活動した時期であったことから、当然平群郡の領主である左近もこれに従っているはずだからである。

 天正十三(1585)年閏八月十八日、筒井定次の伊賀転封が決まり、左近らはこれに従ったが、一族は平群に残った。自領にある金勝寺の復興を成し遂げた左近は、きっと平群谷の領民から慕われた領主だったのであろう。また彼の妻「御ちゃちゃ」の父北庵法印は医者である(『多聞院日記』)。彼女は領民たちに病人が出ると、父の北庵に声を掛けて施術治療してやったのかもしれない。というのも、この父娘は同日記で見る限り、父は娘のところへ度々出かけ、娘は父の具合が悪くなると見舞いに駆けつけるといった、微笑ましくなるような仲の良い様子が描かれており、北庵法印もまた娘や左近のことを「孝子」と表現しているからである。そして北庵は同日記の作者である多聞院英俊とは昵懇だったようで、彼に関する記述はまず事実と見て間違いないと思われる。
 領民たちはそんな左近や妻「御ちゃちゃ」の思いやりを徳とし、平群に残る「御ちゃちゃ」の逆修仏を左近によって復興された金勝寺に造って供養し(結構な費用が掛かるようである)、島氏一族に対して感謝の意思表示をしたのではないかと私には思えるのである。

 もちろん、現段階では単なる一つの仮説に過ぎないのだが。
※文責:Masa 資料提供:平群町教育委員会 2001年6月26日作成 本稿の無断転載及び引用を禁じます。


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