島左近関連人物列伝1

ここでは、左近に関わる人物を列伝形式でご紹介します。

−−−《 一族編 》−−−

乾殿(いぬいどの) 生没年不詳

平群谷上庄村の土豪と見られ、中世末期にその娘が椿井村の島左近に嫁いだ際、「化粧水」と呼ばれる用水引用権(乾殿用水)を持参したという伝承があり、その井手は今なお平群谷に現存する。しかしこの娘と茶々との関連は不明。

小野木重勝室(おのぎしげかつしつ) ? 〜1600

左近清興の娘で、秀吉の侍女を経て重勝に嫁いだという。受洗名シメオンを持つキリシタンと伝えられ、関ヶ原の敗戦後に夫重勝が自刃したことを知り、辞世「鳥啼きて今ぞおもむく死出の山 関ありとてもわれな咎めそ」を詠んで後を追った。

島 勝氏(しま かつうじ) 生没年不詳

通称は修理大夫。『筒井諸記』では左近の四男とする。関ヶ原合戦に参加した模様であるが、以後の消息を含めて詳細は不明。

島 掃部(しま かもん) 生没年不詳

実名は不祥。『筒井諸記』では左近の三男とする。関ヶ原合戦に参加した模様であるが、以後の消息を含めて詳細は不明。

島 清国(しま きよくに)  生没年不詳

豊前守。永禄年間の島氏の当主か。『諸系図纂』では左近の父とあり、興福寺塔頭(たっちゅう)持寶院を建立したとされるが詳細は不明。『多聞院日記』において永禄十(1567)年六月二十一日に平群嶋城に乱入した庄屋の父であり、豊前守は難を逃れて城から脱した模様である。しかしこの庄屋が左近である確証はなく、以後の清国の消息も不明。

島 友勝(しま ともかつ) 1561?〜1600?

通称新助、左近清興の二男とされる(『和州諸将軍傳』等)。関ヶ原合戦にも参加しているようだが(『筒井諸記』)、同合戦関係の記録では二男は十次郎とされており、合戦以降の消息も含めて詳細は不明。

島 友保(しま ともやす)  ? 〜1485?

『和州諸将軍傳』『増補筒井家記』等にその名が見られ、通称左門、左近友之の父とされる。『大和志料』所収の『巨勢系図官務録』に文明十八(1486)年十二月二十九日に討死した旨の記述があるが、『大乗院寺社雑事記』ではこの戦いを文明十七年とする。しかし左近清興の父とするには年代が合わないため、実在するとしても先代左近の父であろう。

島 信勝(しま のぶかつ) 1558?〜1600

通称新吉、左近清興の嫡子。天正十三(1585)年の秀吉の紀州征伐に際し、筒井定次に従って出陣し活躍したとする記録がある。『和州諸将軍傳』では諱は政勝とされ、獺瀬(おそせ)一揆鎮圧の際に活躍したとされる。なお、筒井家移封の際に定次に従って伊賀へ行ったのは信勝で、左近は大和豊田村(吐田氏闕所)にいたとする説もある。関ヶ原合戦の際には前日の杭瀬川の戦いに父左近とともに出陣、本戦では藤堂玄蕃良政を組み伏せて討ち取るが、直後に玄蕃の郎党山本半三郎(異説あり)に討たれたという。関ヶ原合戦関連の軍記物では同合戦を信勝十七歳の初陣とするものもあり、生年は不詳だが総合的に見て『和州諸将軍傳』に見える生年をとりあえず記した。ただし『筒井諸記』では初め新吉政勝、のち左近丞清勝とする。

(たま) 1597?〜 ?

左近清興の末娘で、剣術柳生新陰流正統で尾張柳生の祖・柳生兵庫介利厳の側室。利厳との間に生まれた子・新六が後の連也斎厳包となる。左近の側室の娘である可能性が高いと見られるが、兵庫介利厳の墓所妙心寺麟祥院には珠の墓は見当たらない。

茶々(ちゃちゃ) 生没年不詳

左近清興の妻で、父は興福寺に属す医師北庵法印。『多聞院日記』にその名が見られるが、左近には平群谷上庄の在地土豪と思われる「乾殿」の娘が嫁入りしたという伝承があり、後妻である可能性も考えられる。平群谷金勝寺の磨崖仏(まがいぶつ)「茶々逆修」との関連が注目される。

北庵法印(ほくあんほういん) 生没年不詳

左近清興の妻茶々の父で、興福寺に属す医師。多聞院英俊と親交があり『多聞院日記』に度々登場するが、その素性や事績などは不詳。ただ、『多聞院日記』における初見の際の記述が唐突で、その行動の類似性から中坊治部卿法眼の後身(同一人物)である可能性がある。

松倉重政室(まつくらしげまさしつ) 生没年不詳

左近清興の娘で、石田三成の養女として豊後守重政に嫁いだという説があり、『関ヶ原軍記大全』にも「松倉豊後守は六万石を領して島が聟なり」と見える。しかし『寛政重修諸家譜』では重政室は筒井主殿助正次の娘とされることから、側室と見られる。

陵尊房(りょうそんぼう) 生没年不詳

左近清興の三男か。興福寺塔頭持寶院の主と見られ、『和州国民郷士記』に石田三成より一万石を領したとする記述がある。詳細は不明。


−−−《 大和・前半生編 》−−−

赤沢朝経(あかざわ ともつね)   ? 〜1507

沢蔵軒宗益。清和源氏小笠原氏の末裔で、初め常盤十郎朝経と名乗る(『応仁後記』)。近畿管領細川政元の重臣となり、特にその軍事面で活躍。三好氏と結んで河内高屋城の畠山義英を大和に追い払った。永正四(1507)年、武田元信とともに丹後守護一色義有攻めに三百余騎を率いて出陣するが、阿弥陀峰城を攻略中に政元が暗殺されるという事件が起き、自軍が総崩れとなる中を退却しようとしたが果たせず、敵に囲まれ六月二十六日に自害した。

木沢長政(きざわ ながまさ)    ? 〜1542

左京亮。河内飯盛(山)城主で同国守護代を務める。『畠山家記』には「希代ノ悪人」と見え、初め畠山義宣の家臣であったが、のち細川高国・晴国・晴元に属す。天文元(1532)年五月、旧主畠山義宣に飯盛城を包囲されるが、細川晴元・本願寺証如の加勢を得てこれを破り、義宣を自刃させた。同五年には大和乱入を目論み信貴山に城を構えるが、一部は支配下に置いたものの晴元・三好政長らと対立、同十一年三月十七日に河内太平寺にて戦い敗死した。大阪府柏原市の安堂・太平寺墓地に墓がある。

下河原平太夫(しもがわら へいだゆう)  生没年不詳

『砕玉話』に左近の家臣としてその名が見え、年来武功の士であったとされる。大和平群谷の在地土豪下河原氏の一族である可能性が考えられるが、いつから左近の家臣となったか等は記録に見えず、平太夫と同氏の関係は不明。

筒井定次(つつい さだつぐ) 1562〜1615

慈明寺順国の子で幼名小泉四郎、筒井順慶の従兄弟に当たる。大和郡山のち伊賀上野城主、羽柴伊賀侍従。順慶の養嗣子となり没後に筒井家を継ぐが、天正十三(1585)年閏八月、秀吉の命により伊賀へ移る。関ヶ原の際には東軍に加担するが、東征出陣中に居城を奪われる。戦後所領は安堵されるが、慶長十三(1608)年に素行と治政の不行き届きを家老中坊秀祐が駿府の家康へ訴え出たことにより改易、鳥居忠政預けとなった。大坂の役の際に敵方内通を疑われ賜死。享年五十四歳。

筒井順慶(つつい じゅんけい) 1549〜1584

順昭の子で初名藤政、元奈良興福寺官符衆徒の大和郡山城主。陽舜坊。永禄期〜天正五(1577)年の間、大和へ侵略してきた松永久秀と繰り返し戦うが、織田信長の助けもあり久秀滅亡後は大和一国を統治。山崎合戦の際の「洞ヶ峠をきめこむ(日和見をする意)」の故事で有名だが、順慶は洞ヶ峠には出陣しておらず、郡山城にあって善後策を協議していて秀吉方加担が遅れたため、後に秀吉から叱責された。信仰心が厚く、謡曲や茶にも堪能で教養ある武将として知られる。三十六歳の若さで病死。

筒井順昭(つつい じゅんしょう)1523〜1550

大和興福寺官符衆徒で順慶の父。激動の大和にあって一時窮地に陥った筒井家を盛り返した。その死に際しては、南都に住む黙(木)阿弥という名の琴の師匠を自分の身代わりに立てて喪を秘すよう遺言、四族三老(四親族=山田道安・慈明寺順国・福須美順弘・飯田頼直、三老=島左近・松倉右近・森志摩守)らはこれを実行して黙阿弥を身代わりとし、用が済んだところで褒美を与えて元に戻したことから「元の黙阿弥」の諺が生まれたという逸話は有名。天文十九年(1550)六月二十日、南都林小路の外館(下館)にて病没。享年二十八歳。外館は現在生駒市上町に移転した圓證寺の本堂として現存し、同寺には順昭の遺骨が納められた墓がある。なお、没年を天文二十年とする説もある。

松倉重信(まつくら しげのぶ) 1538?〜1593?

弥七郎政秀の子で通称右近、権左衛門(『寛政重修諸家譜』)。名は勝重とも(『増補筒井家記』等)。大和筒井氏の家臣で初め七千石、のち伊賀名張簗瀬城八千三百石を領す。島氏・森氏とともに「筒井の三老」と称され、また島左近清興とともに「筒井の右近左近」とも称せられた。同氏系図によると政秀の二男とされているが、重信と勝重は別人である可能性もあり、詳細は不明。『和州諸将軍傳』では筒井定次に従って伊賀へ赴くが、天正十四(1586)年三月七日に名張城で病没したとし、『寛政重修諸家譜』では文禄二(1593)年七月七日、五十六歳で死去したという。

松倉重政(まつくら しげまさ)   ? 〜1630

筒井氏家臣・右近重信(勝重)の嫡子で初名は九市郎または孫七郎、のち豊後守。筒井定次に従って伊賀へ赴き、名張八千石余を領した。関ヶ原の際には「大和浪人」として東軍方に付き、井伊直政家中の木俣左京隊に陣借りし、従士が島津家の阿多盛淳を討ち取る手柄を立てたという。関ヶ原合戦後には大和宇智郡二見(五条)一万石の主となる。大坂の陣にも出陣し、戦後四万石に加増され肥前島原に赴くが、厳しいキリシタン弾圧と重税を課したため、後の島原の乱の一因となった。

松倉政秀(まつくら まさひで) 生没年不詳

大和筒井氏の一族で添上郡横田郷の領主とされる。通称は弥七郎、島氏・森氏とともに「筒井の三老」と称される。詳しい事績は不明であるが筒井順興・順昭・順慶に仕えたものと思われ、大和の資料では勝重の父とするものが多い。天文二十二(1553)年元旦に春日大社に寄進した灯籠が現存する。

松永久秀(まつなが ひさひで) 1510〜1577

大和信貴山・多聞山城主。山城西岡の商人の出自などとも言われ、前歴不明ながら戦国期屈指の謀略家で主の三好長慶から実権を奪い、時の将軍義輝を二条御所に攻め殺害した。永禄十(1567)年、筒井順慶・三好三人衆らとの南都における戦いで、兵火により結果的に東大寺大仏殿を炎上させる。のち信長に属すが再三背き、天正五年十月に信貴山城で自刃(一説に名器平蜘蛛茶釜とともに爆死)。奇しくもその日は大仏殿を焼いた日と同じ十月十日であった。元久秀の京都屋敷跡であった京都市下京区の妙恵会(みょうえかい)墓地に久通との合葬墓碑が、奈良県王寺町の達磨寺に久秀墓と伝えられる墓碑がある。法名は「妙久寺殿祐雪大居士」。

松永久通(まつなが ひさみち) 1543?〜1577

幼名彦六、はじめ義久を名乗る。久秀の嫡子で、一説に河内飯盛山城で誕生したという。はじめ右衛門大夫を称し永禄六年に従五位下右衛門佐に叙任、家督を譲られて多聞山城主となり、その官名から金吾と呼ばれた。父久秀とともに行動する事が多く、将軍義輝殺害に加担。天正五年八月、突如信長に背いた父に従い出陣中の摂津天王寺の砦から引き上げ、十月一日に楊本城で裏切りに遭い殺された。一説に父久秀とともに信貴山城に滅んだとも伝えられる。法名「高岳院久通居士」。

森 好高(もり よしたか) 生没年不詳

幼名千代丸、通称九兵衛・縫殿助。志摩守好之の子で妻は松倉右近の娘。天正九年に父好之の死去により遺領を継ぐ。筒井定次の移封により伊賀に赴くが、天正十五(1587)年に伊賀を去り南都傳香寺に遊居と伝える。知行五千石、後に大津姓に改姓したという。

森 好久(もり よしひさ) 1538〜1582

通称傳助・隼人佐、縫殿助好高の従兄弟で二千石を領す。妻は小泉四郎左衛門秀元の妹。一説に天正五(1577)年の信長による信貴山城攻めの際、松永方に潜入して筒井氏の軍勢を城内に手引きしたとされる。天正十年十月六日没、享年四十五歳という。

森 好之(もり よしゆき) 1518〜1581

志摩守。大和筒井氏の一族で、妻は筒井順昭の妹。森本に住し島氏・松倉氏とともに「筒井の三老」と称される。筒井順昭・順慶に仕え七千石を領し、詳しい事績は不詳だが天正九(1581)年筒井城にて没したという。享年六十四歳。

柳生宗厳(やぎゅう むねよし)  1529〜1606

大和柳生の国人で、剣術柳生新陰流の開祖。通称新左衛門のち但馬守、道号石舟斎。上泉信綱が柳生を訪れた際に手合わせを申し込み、弟子の疋田文五郎にさえ手もなくひねられたことから信綱に師事。以後、研鑽を重ね秘技「無刀取り」を編み出したという逸話は有名。『正傳・新陰流』では左近とは早くから昵懇だったとされる。慶長十一(1606)年四月十九日、柳生で没した。享年七十八歳、法名「芳徳院殿故但州刺史荘雲宗厳居士」。同地の芳徳寺に一族とともに墓がある。


2002年3月11日記・禁無断転載
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