検証・対馬出自説

左近の出自には有力なものとしては、現時点で主流と目される大和説の他に対馬説・近江説などがありますが、未だにはっきりとは結論づけられてはいません。ただ、左近は大和の筒井順慶の下にいたのは事実であることから、ここでは謎多き左近の出自を各説ごとに、大和における記録と比較検討することによって少し掘り下げて調べてみました。


対馬にある左近の墓

 まず対馬説であるが、これは明治十五年に刊行された『大日本野史』(飯田忠彦著) にその記述が見られるのでご紹介する。同書によると、「左近勝猛の父は対馬の人で左内友保といい、大和平群郡西宮に住し所領一万石をもって筒井氏に仕えた。天正十三年に伊賀上野城代となるが十六年には城を去り、京都興福寺持全院に幽居したが、その子が左近勝猛である」とされている(『対馬島誌』より抜粋)
 少々気になるのは「京都興福寺持全院に幽居」という部分で、これは単なる誤植かもしれないのだが、興福寺は奈良の寺である上に、その塔頭(たっちゅう)に「持全院」という寺は存在しない。左近が幽居したとされるのは「持寶院(じほういん)」である。興福寺関連の資料から調査したところ、この持寶院は現在の奈良市登大路町、奈良国立博物館と通りを隔てた北向かい(氷室神社の並び)に位置していたことが判明した。
 ところで、『関ヶ原軍記大全 巻之六』(関ヶ原歴史民俗資料館蔵)には
「嶋は関ヶ原の時諸手と相戦ふ事急にして万夫不當の英雄也。終に大敵の囲みを切抜、向ふ者なき故難なく只一人本国對馬へ下りけり。古今例多き事也(後略)(書き下し文・句読点は後補)
という記述があり、対馬出自説を採用するものはこれを典拠の一つとしている可能性も考えられるので付記させていただく。

左近墓説明板  地元の『対馬人物志』では、左近は対馬島の出身で父は友保、資性英秀で文武両道に優れ、眉尖刀(なぎなた)と鉄炮術に秀でたとし、『対馬島誌』によると、左近は同島人で八島氏とも島氏とも伝えられ、文禄元(1592)年四月に渡鮮に向け対馬島仁位浦に集結した「仁位党九十一人」のうちに六人の島姓の者がおり、その筆頭に左近の名が見えるという。また左近の墓と伝えられるものが島山(上島と下島間の島内島)の山上にあり、付近に咲く曼珠沙華の花を地元の人々は「左近花」と呼んでいるとのことである。
 写真は左近の墓の入口に建つ説明板で、文面に見られるように左近は関ヶ原から落ち延びたとされている。なお、画像クリックで左近の墓画像にリンクしてある。
※この写真は対馬在住の左近研究家・菅野慶全氏のご厚意によりご提供いただきました。この場を借りて深く御礼申し上げます。

 さて、参考のために両書の左近関連記述部分を引用する。

『対馬人物志』(句読点は後補した)
「島左近勝猛 犢史略、大三川志、並に清興に作る 諸将軍傳には勝猛名は友之本名清胤 姓は藤原氏、左近と稱す。對馬の人なり。父を友保と曰ひ筒井氏の臣たり。勝猛資性栄邁、弱年にして孫呉の書を讀み能く兵法に通暁し、又眉尖刀を善くす。嘗て曰く、我れ性を武辨に受け、徒らに陋巷に終るは智なきに似たりとて、天正の初年、大阪に奔り筮仕を求む。是の時豊臣秀吉の武威益々熾盛なるを聞き、之に事へんと欲して未だ得ず、石田三成に憑りて之を求む。三成乃ち勝猛を引きて上客となし、善く之を遇す。而して自ら宿望を懐けるを以て、勝猛を出して人に仕へしむるを欲せず、時に三成采邑二萬石を領す、其の半を割きて勝猛に與ふ。秀吉之を聞き勝猛を召して仕へしめんと欲す。而して三成之を吝惜して以て己れの家人となす(後略)


『対馬島誌 町村編』
「島左近墓 島山の山上に在り關ヶ原役西軍の謀将島左近は島山の産なるが之を葬りしと傳ふ。 附言 島左近勝猛は本島人にして八島氏なりと云ひ、又島氏なりと云ひ、未だ明らかならず。然るに文禄元年四月朝鮮に發向の記録「朝鮮御供人數之覚」に仁位党九十一人之内島氏六人あり、筆頭に島左近の名あり此の島氏は蓋し島山の人にして左近は其の一族の主長なるべし。島山に在るは此人の墓に非ずや、而して石田の島と同名異人なるや否やに就ては尚ほ研究を要す。(朝鮮御供人數覚には種々ありて島左近の名無きものあり、編者の此處に引用せるは伊奈小野家所蔵のものに據れり) 又云 朝鮮陣戦死者に島左馬あり、左近は左馬の誤ならずや。(後略)


 注目すべきは、『対馬人物志』によると、左近は天正の初年に秀吉に仕えようとして大坂へ出たということ、またそれを三成に取りなしを頼んだが、三成は野望を持っていたためそれを渋り、結局は自分の家臣にしてしまったということであるが、これは明らかに時期がおかしい。天正初年は筒井氏一党は松永久秀との戦いのさなかで、この時期に左近が大坂へ出るなどありえず、少なくとも『多聞院日記』の記述からも筒井順慶の没後までは筒井家にいたことは確実だからである。また文意からどこか必要以上に石田三成を貶めようとする意図も感じられるため、これは信じることはできない。
 さらに『対馬島誌 町村編』では、左近の名の見られない「朝鮮御供人數之覚」も存在するため、「対馬の島左近」が世に言う「島左近」と同一人であるかどうかはわからないということで、朝鮮陣で戦死した「島左馬」なる人物と混同している恐れがあるとも述べられている。これではやはり、左近が対馬の出自であると断定するわけにはいかない。

 ところで、戦前に最も権威のあった『歴史人名辞典』の左近の項には「対馬出身」と記載されていたそうであるが、戦後の同種の辞典では全てこの部分は削除され、「出自未詳」とされている。なぜ突然このように改変されたのかは明らかではないが、やはり上記の理由などから、対馬出身と断じるまでには至らないと判断されたのであろう。


検証・対馬出自説

 改めて「対馬説」を考えるに、まず島氏が中世中頃より大和平群谷にいたことは紛れもない事実であり、嘉暦四(1329)年の春日大社文書「春日社御神供米吐田庄納帳」に「平群嶋春」と見えるのが大和島氏の文献上の初出と見られ、至徳年間(1384〜1386)の『流鏑馬日記』にも島氏の名があり、応永十一(1404)年の『寺門事條々聞書』にも大和国民としての記載があることから、大和島氏は少なくとも嘉暦四(1329)年までには在地領主として平群谷(現奈良県生駒郡平群町)に存在しており、その後至徳年間までに国民になっていたものと見なして良いかと思われる。

 併せて中近世大和の特殊な事情を考えると、「対馬を出て平群郡西宮に住し、所領一万石をもって筒井氏に仕えた」というのは少し理解しにくい。なぜなら、当時の大和の国人(衆徒・国民)たちは主従関係で徒党を組んでいたのではなく、それぞれの利害関係・血縁関係などによる思惑により、興福寺の一乗院・大乗院方に分かれて「同格」で結党して戦っていたのである。それらのうちで頭一つ抜き出た勢力が筒井氏でありまた越智氏であったわけで、その筒井氏や越智氏でさえ、さらなる大勢力である河内畠山氏の内紛に巻き込まれ、本領を追い出されて没落してはまた勢いを盛り返して取り戻すという戦いを繰り返していた当時の大和の国情を考えると、他国者に一万石の領地を与えて抱えることなど、まずありえないのである。(参考:当時の筒井氏の所領は最大で約六万石)
 さらに私見ではあるが、伊賀へ赴いて上野城代を務めたのは父ではなく左近自身であると思われ、文禄の役の際には石田三成の家臣として出陣しているのは『多聞院日記』の記述からまず事実と見て良いことなどから、やはり『渡鮮に向け対馬島仁位浦に集結した「仁位党九十一人」のうちに六人の島姓の者がおり、その筆頭に左近の名が見える』という上記内容には少々抵抗を受ける。

 ただ、だからといって対馬出自説をあっさり切り捨てるというわけではない。『対馬島誌』によると応永八(1401)年、島主である宗頼茂の叔父に当たる島八郎左衛門貞秀と弟の島新六秀重兄弟が頼茂に背き、島兄弟は頼茂の軍勢と交戦するが敗れて殺されるという事件が起こる。ここで左近に少し詳しい方ならお気づきかもしれないが、注目すべきは「新六」という名である。左近の末娘は後に剣豪として名高い尾張柳生家の祖・柳生兵庫介利厳の妻となるのだが、利厳との間に生まれた子が「島(林)新六」を名乗っており、新六は後に柳生最強と言われた連也斎厳包その人なのであるが、偶然にしては少々気になる名ではある。

 さらに、貞秀・秀重の名に見られるように、対馬島氏の通字は「秀」である。ところが、後述するが近江坂田郡飯村住の島若狭守秀安(以後この家系を近江島氏と記す)の子に四郎左衛門秀宣・新右衛門秀淳、四郎左衛門秀宣の子に久右衛門秀親がおり、近江島氏の通字もまた「秀」であることから、この貞秀・秀重一族(対馬宗氏一族である)との何らかの関連も、ある程度考えられるのである。
 というのも、近江島氏側に伝わる系図では元は今井氏と同族ということになってはいるが、今井氏と比較すると秀安の代に至るまでの両氏の世代数が合わない節が見受けられるため、同系図には信憑性に少なからず疑問が残るのである。ここは一つ対馬島氏と近江島氏の関係も頭の片隅に置いた上で、慎重に以後の考証を進めていきたい。

 というわけで、当サイトとしては、現時点では左近対馬出自説は採用しない。今後新史料の出現を見るまでは、この対馬出自説は参考としてご紹介するにとどめたいと思う。


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