激動の大和と島氏

歴史に残る室町期の大乱「応仁の乱」は大和島氏をも直撃します。ここでは一時は奮戦して畠山義就勢を平群谷から撃退したものの、やがて巻き返され没落した島氏の動きをご紹介します。


河内畠山氏の内紛

 島氏は後に筒井氏の麾下へ属すことになるのだが、『経覚私要鈔』嘉吉四(1444)年正月二十三日条に以下の記述がある。

「一當國衆悉馳向可責落筒井之由、十六人ニ被下地云々、宝来 龍田 古市 小泉 木津 豊田中 十市 箸尾 岡 嶋 片岡 超昇寺 番条 布施 越智 巳上十六人 ○人数合ハズ、一人書落セシモノカ

 これは興福寺大乗院門跡の経覚が、越智氏を中心とする十六人の衆徒・国民に下知して筒井館を攻略させた記録で、中にはご覧のように「嶋」の名が見える。もし島氏が経覚の下知に従っていたならば、この頃島氏は反筒井派だったか、あるいは一族が分裂してその一部勢力が筒井氏と交戦していたのかもしれない。しかし箸尾宗信は当時筒井氏と婚姻関係があり筒井方で、島氏も含むこれら国人衆がすべて経覚の下知に従ったわけではないようである。そして経覚は敗れ、一旦京都の嵯峨へと逃れるが、三ヶ月後には再び奈良の鬼薗山(きおんやま)に城を築いて筒井方に対抗する。
 ここで経覚(きょうがく)なる人物を簡単に紹介しておくと、彼は摂関家の一つ九条家の出で、時の本願寺門跡・蓮如兼寿の従兄弟にあたる。蓮如の師でもあり、宝徳元(1449)年に九条満家が没した際には、まだ幼かった成家・政基の後見役を務めるなど、当時の大乗院のトップとしてなかなかの実力者であり、また策謀家だったようである。

竜田城  やがて享徳四(1455)年六月、畠山持国が死去すると子の義就と弥三郎(政長の兄)両派による内紛が表面化、大和の国人衆もそれぞれの企図するところにより両派に加担して抗争を繰り広げる。弥三郎は長禄三(1459)年に没したため跡を弟の弥二郎政長が嗣ぐが、持国の実子義就と養子政長の家督相続争いは益々エスカレートし、やがて起こる応仁の乱のひとつの契機ともなっていく。そして翌長禄四年十月十日には義就が大和竜田に布陣する政長および筒井勢の陣に攻め寄せ、この一手が平群谷の島氏を襲うという事態が発生する。写真は斑鳩町内で撮影したもので、右手に見えるのが竜田城西側斜面、流れる川は竜田川である。

 この戦いでは政長方に属す筒井・島氏が共に勝利をおさめているので、仮に島氏は先の経覚の下知に従っていたとしても、この頃までには筒井氏に属していたか、あるいは親筒井氏の立場にあったのであろう。やや長くなるが、この戦いについての『経覚私要鈔』の記述を引用する。(一部注釈)

[ 長禄四(1460)年十月十一日条 ]
「一酉初黒占ニ古市方より以片山弥九郎申給云、昨日自畠山右衛門佐(義就)龍田へ押寄候、於西口有合戦、先陣越智備中守家國・彦三郎・同末子彦左衛門以下被打了、是筒井(順永)弥次郎後政(攻)ヲ沙汰之間陣破故也、惣勢五百計寄畢、備中(越智)・彦三郎(高取越智)以下被打、 残分三百計川鍋山(神奈備山=三室山)ニ取上テ取陣之処、弥次郎(政長)方勢筒井以下六時分より河鍋山ヲ取巻責戦之間、譽田遠江(全寶)入道・遊佐河内守國助・三宅以下大略被打了、畠山右衛門佐者信貴山へ取上、先陣戦破之間嶽山ヘ引籠トモ申、又不知行方ト 云説■(在カ)之云々、又一手部栗(平群)嶋城ヘ押寄者ハ遊佐内者中村ト云者也、沙汰損テ中村以下大略被打云々、仍頸共上京都由有風聞云々、其後自方(〃脱カ)申賜畢」


若江城跡  簡単に大意を記すと、「十月十日に畠山義就が五百ばかりの兵で大和竜田に陣する畠山政長・筒井方に攻め寄せ、西口という所で交戦した。先陣の越智備中守らは筒井順永の後詰めに敗れて討死した。残った三百ばかりの兵は川鍋山に陣を取り直すが、筒井勢に敗れて譽田遠江らが戦死したため義就は信貴山へ退き、その後河内嶽山(岳山)へこもったとも行方不明になったともいう。また義就方遊佐氏の臣中村某が別働隊を率いて平群嶋城を襲うが失敗、中村は討死して首は京都へ送られたという噂だ」ということである。
 『大乗院寺社雑事記』にも簡単だが同様の記述があり、竜田の政長陣と「平群之嶋所」へ義就軍が攻め寄せたが敗退したとある。
 写真は義就・政長の戦いの象徴とも言え、後にも細川氏・三好氏とめまぐるしく城主の代わった河内若江城跡(現東大阪市若江南町周辺一帯)で、かつて東西380m、南北280m、面積110haにも及んだとされる同城の面影はもはや見られず、現在は石碑のみにその名を残している。


応仁の乱と島氏

 さて、室町幕府の権威が弱まり世は次第に乱れ、やがて京都を舞台に応仁・文明の大乱が勃発するのだが、大乱発生の経緯については当稿とは直接関係がないので割愛させていただく。島氏は筒井氏らとともに畠山政長方すなわち東軍(総大将は細川勝元)となるが、越智党などは畠山義就方すなわち西軍(総大将は山名宗全)に加担するなど、大和の国人衆も河内畠山氏内紛による影響をそのまま継続する形で東西二派に分かれ、以後長きに渡って抗争を繰り返すことになる。
 大乱も終盤に差し掛かった文明七(1475)年五月、大和では東軍方の十市遠清が西軍方の古市胤栄・越智家栄を春日社頭で破るが、『大乗院寺社雑事記』同年六月・七月条によると、島氏当主の子と見られる「弥七」「新三郎」なる人物が一連の戦いで討死した旨の記述がある。さらに同記七月二十日条では、

「豊田息近江公昨日祝着子細有ル之云々、平郡嶋息女可成福智堂之縁之由兼約之処近年没落間異変云々」

とあり、「福智堂」なる人物が近年没落していたため、婚儀を予定していた島氏の息女が豊田近江祐英の妻となったことが分かる。この豊田氏は山辺郡豊田城(現天理市)を本拠とした国人で、筒井党とは敵対関係にあった。この時期大和国内では西軍方が優勢であったことを考えると、婚儀というより筒井党からの「人質」的な意味合いが強かったのかもしれない。

 さて大乱も終盤の文明九(1477)年、この年の『大乗院寺社雑事記』に興味深い記述があるので引用する。

[ 文明九(1477)年七月二十一日条 ]
「興胤内々付才學、山田庄代官事、定寛競望之条も勿論也、以河内公令申東北院之處、不及領状云々、又平群嶋以長教内々希望、色々契約共在之而、代官事者治定勿論也、於成身院事子細能々令存知云々、嶋も定寛も遊佐方と半吉物也、可成如何哉、此条ハ隠蜜子細也、不可口外云々」


 記載に見られる山田庄とは山城相楽郡(現京都府相楽郡加茂町)にあり、藤原家忠・高陽院・広橋家・近衛家・摂関家領としての庄園である。また「河内公」とは河内畠山氏執事で守護代を務める遊佐河内守長直のことで、長直は畠山政長(のち尚順)方だったことから、島氏は彼に取り入って山田庄の代官職を望んでいたことが窺われる。


平群谷からの脱出

 さて、同年十月九日、義就方は長直を攻め河内若江城を攻略するが、この時の模様が『大乗院寺社雑事記』に以下のようにある。

[ 文明九(1477)年十月九日条 ]
「一 嶽山城没落、責手大和吐田勢云々、昨日事云々、
 一 往生院城責洛(落)之、
 一 若江城没落、遊佐河内守長直自天王寺令乗船没落了、河内國一國於于今者悉右衛門佐方如所存成下了、珍重事也、
 一 自信貴山越被責和州、平郡(群)嶋没落自燒、或發向之云々」


畠山政長の墓  ご覧のように、義就勢の攻撃に河内嶽山・若江城が落とされ、遊佐長直は天王寺から船に乗って逃れ、島氏も平群谷の居館または城を自ら焼いて逃れたようである。ここに義就は河内・大和をほぼ手中に収め、11年間に渡って繰り広げられた大乱も終息していく。しかし義就が延徳二(1490)年十二月に没した後も、子の基家(のち義豊)が家督を嗣いで政長に対抗、このため大和国内の混乱はまだ収まらなかった。
 明応二(1493)年二月、将軍足利義材は畠山基家討伐に向け、河内正覚寺(現大阪市平野区加美正覚寺)に出陣して政長と合流する。しかし閏四月二十五日、政長らは基家に肩入れした細川政元の援軍に正覚寺の合戦において敗れ、政長は自刃し義材は降伏するという結末を迎えると、すかさず子の尚順(ひさのぶ)が後を嗣いで基家と対抗するといった具合であった。なお、写真は正覚寺跡近くに今もなおひっそりと残る政長の墓である。

 再び時代を戻す。文明十(1478)年の『多聞院日記』に以下のような記載がある。

[ 正月十三日条 ]
「一 南大門ノ幡ユイ付シ杭ノ事、修理目代ヨリ如先例付庄役被下知、子守請取之歟ト云々、今度西方ノ杭依催無沙汰ニ、平郡(群)嶋方逐電トテ不上ト云々、東西各廿本ハカリ歟ト云々、東方ハ楢庄・森本以下ヨリ上ル歟ト云々」

[ 同年九月十日条 ]
「一 平郡(群)之郡、河内國人豐岡方自畠山殿稱御給恩強入部云々、自武家方知行之事、神國之稱號只今令失歟、(後略)


 正月十三日条には「逐電」という文言が使われているのだが、文明十三(1481)年の『大乗院寺社雑事記』九月二十九日条にも「文明九年酉九月廿一日畠山入国以来没落輩」として「嶋、曽歩々々」の名が見えることから、島・曽歩々々両氏はともに一旦平群谷から消えたことは間違いないようである。
 というのも、「南大門の幡をくくり付けるための杭」が、島氏が逐電したため差し出されていないということは、一族揃って平群から脱出した公算が大きい。当主が逃げ出しても一族が在地していれば、杭の二十本くらいは差し出せそうに思われるからである。さらに、九月十日条に見られるように、河内畠山氏麾下の国人「豊岡」なるものが、畠山氏から平群谷を与えられて入部している模様で、これについて同日記の著者多聞院英俊は「(大和平群谷が)武家より知行されるとは、神国大和の称号はここに失われるのか」と嘆いている。つまり、島氏が脱出したあとの平群谷は、畠山氏(義就)方の被官人によって支配されていたことが判る。

 こうして文明九年十月以降、平群谷から脱出して牢人となった島氏は、この後二十一年の長きに渡って流浪することになる。この間、島氏は筒井氏とあくまで行動を共にしたのか、それとも別行動をとったのか。それはさておき、文明十年九月、意外な場所で島氏が「事件」を起こす。


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