劣勢の西軍

石田三成は岐阜城の織田秀信を味方に加えることに成功、大垣城を本営とします。しかし小山より兵を返した東軍は清洲城に集結、福束城を抜き岐阜城へと攻め寄せます。


三成の迎撃策

 石田三成は大垣城主伊藤盛正を説得したというか、半ば強制的に城を明けさせて入城し、関ヶ原合戦前日まではここが西軍の本営となった。彼は当初東軍との決戦の場を矢作川・境川(いずれも愛知県)あたりでと予定していたが、福島正則の臣・大崎玄蕃の拒否で清洲城入城が果たせず目論みが外れたため、この上は濃尾国境を流れる木曽川の線で食い止めようと考えていたようである。そして西軍に加担した織田秀信の岐阜城を中核に、犬山城(愛知県犬山市)・竹鼻城(岐阜県羽島市)の前線防御ラインを構築した上で、犬山城へは城主石川貞清に加えて稲葉貞道・典通・方通、加藤貞泰、関一政、竹中重門らを派遣、竹鼻城には城主杉浦重勝に加えて加賀野井秀盛と岐阜からの援将梶川三十郎・花村半左衛門、三成からの援将として毛利掃部を派遣した。さらに第二線として長良川右岸に自身の手兵と小西・島津勢を置き、最後の防御線として揖斐川を予定していた。しかし、この時点においても、なかなか三成の思うようには軍は集結していなかったようである。

 一方、下野小山から急ぎ引き返した東軍はと言えば、十一日には福島正則・市橋長勝・徳永寿昌らが清洲城に到着、十四日には先鋒部隊四万がほぼ集結していた。しかし美濃に所領を持つ市橋(今尾城主)・徳永(松ノ木城主)は、国内の情勢が予想を上回って西軍に傾いていることに驚き、急ぎそれぞれの城に戻って防御を固めた。福島正則は配下の尾張赤目城主横井伊織介を福束城主丸毛兼利の家老丸毛六兵衛に派遣し、翻意して東軍につくよう説得するが、兼利はこれを拒否した。この報を受け、正則は市橋・徳永と相談の上で横井伊織介をその援軍として加勢させることとし、両将に福束城の攻略を命じた。

 八月十六日朝、東軍勢は福束城の東方から軍を進め、福束城の南東大榑(おおくれ)川左岸の勝賀村付近(現岐阜県海津郡平田町北部一帯)に布陣した。迎え撃つ福束城の丸毛兼利も対抗して川を挟んだ右岸一帯に出陣する。兼利から報せを受けた三成は、大垣城主伊藤盛正・長松城主武光式部に福束救援を命じ、自らも手兵を裂いて舞兵庫ら計三千の救援軍を福束へ向かわせ、これら両軍が川を挟んでにらみ合いとなった。
 一旦膠着状態となったものの、東軍勢は一計を案じ、夜半密かに別働隊を編成して迂回させ一斉攻撃を開始した。予期せぬ敵が背後から攻めて来たので西軍方は驚き、伊藤らは大垣城へと逃げ戻るが、丸毛勢は福束城に籠城した。
 兼利は奮戦するが勢いの差はどうにもならず、城を捨てて大垣城へと敗走する。東軍はこうしてさしたる損害もなく福束城を落とし、小戦とは言え美濃における緒戦を幸先良く勝利で飾った。

 十九日には江戸にいる家康からの使者・村越茂助直吉が清洲に到着する。家康からの指示を待っていた東軍方は翌日に軍議を開き、岐阜城・犬山城攻撃に向けて各将の持ち場を定め(一説にくじで決めたという)、二十二日を開戦日と決めた。そして先鋒左翼を務める福島勢らは尾張起渡し経由で、同右翼の池田勢らは河田渡し経由でそれぞれ岐阜城へ向かい、また中村勢は押さえとして犬山城方面へと行動を開始した。なお、犬山城はこの後何ら機能することもなく降伏開城することになる。


織田秀信の西軍加担

 この間の西軍方の動きはというと、石田三成は若き岐阜城主・織田秀信を西軍方に付けることに成功するが、これは大きかった。織田信長の嫡孫・秀信は当時二十一歳で、かつて山崎合戦で秀吉が明智光秀を討伐後、いわゆる清洲会議において秀吉に推され織田家の当主となった三法師その人である。しかし時流はもはや織田家には戻らず、当時は岐阜十三万五千石を領する秀吉麾下の一大名として存在していた。
 この頃美濃では東西いずれに加担するかで迷っている者が多かったが、これはその中心的存在ともいえる秀信の去就を見定めようとしたからである。三成は秀信のもとに家臣の川瀬左馬助を派遣し、戦後は美濃・尾張二国の主とするという条件で加担を要請した。秀信の重臣木造具康らは東軍加担を勧めたが、結局秀信は寵臣入江右近らの言を容れて西軍方加担と決し、これが美濃国内の情勢に大きく影響を及ぼした。すなわち、国内の諸将はほとんど西軍方となったのである。

 秀信は石田三成から加勢として差し向けられた援軍を加えて軍評定を開いた。席上、木造・百々・佐藤方秀(方政)らは籠城策を主張するが、秀信の意向により出陣と決まる。その作戦は、まず木曽川岸の第一陣・米野で渡河してくる敵を撃破、討ち漏らした敵は境川岸の第二陣で殲滅させる。それでもだめな時は大垣からの援軍を待って籠城し、挟撃により敵を討つというものである。そして八月二十一日までに次のような布陣を固めた。
 総勢九千の兵のうち、先鋒の米野村には百々綱家・飯沼小勘平長資・津田藤左衛門らの二千五百。少し東の中屋村には木造具康・具正の一千。米野と秀信本陣との間にある伏屋村には柏原彦左衛門・川瀬左馬之助の二千。さらに遊軍として、新加納村に佐藤方秀の一千を置いた。秀信は岐阜城に守備兵八百を残し、千七百の兵を率いて本陣を米野と岐阜城のほぼ中間、境川右岸の川手村閻魔(えんま)堂に据え、迎撃体勢をとった。


劣勢の西軍

 福島正則は起渡し(現尾西市起・濃尾大橋付近)経由で竹鼻城へと向かった。しかし渡河予定地点の足場が悪く、西軍方の防御が予想以上に堅固だったこともあり、下流の加賀野井城(現羽島市加賀野井)対岸付近まで移動し、合図の狼煙を待っていた。
 ところが二十二日払暁、合図がないまま上流から激しい銃撃戦の音が聞こえてきたため正則は約定違反と怒り、ただちに全軍に号令し一斉に渡河、攻撃を開始した。攻撃開始については、上流の狼煙発見とともに銃撃音が聞こえた、正則が狼煙を上げて攻めかかった、夜半こっそり渡ったなどとする異説もあるが、ここではこのようにしておく。怒った正則らは寄せ集めた筏で木曽川を渡り、怒濤の勢いで竹鼻城へと向かった。
 詳細は省くが、正則は猛烈な勢いで竹鼻城を落とし、城主杉浦五左衛門重勝は奮戦の後、城に火を放って自刃した。
 城を落とした正則は程近い境川の太郎堤で野営しようとしたが、輝政らが岐阜城下まで進出していることを知り、負けていられるかとばかりに夜行軍を敢行、この日のうちに岐阜城近くの茜部(あかなべ)村まで軍を進める。

 一方、池田輝政を中心とする先鋒右翼勢は、二十一日夜までに米野の対岸、木曽川左岸の河田付近に集結した。従う面々は浅野幸長・山内一豊・有馬豊氏・戸川逵安(みちやす)らの一万八千である。輝政は木曽川下流から進撃する福島正則と呼応して、岐阜城の搦手筋から攻め込む段取りであった。
 翌二十二日払暁、池田勢は一柳直盛・堀尾忠氏・伊木清兵衛(池田隊)らが先陣となって渡河を開始した。敵勢が木曽川の中州(現岐阜県羽島郡笠田町)に上陸するのを見た秀信勢は一斉射撃を開始、ここに戦いの火蓋が切って落とされた。東軍勢は激しく飛来する銃弾をものともせず次々と川を渡り、米野堤へと上陸する。そこへ秀信勢の先鋒百々綱家が事前に隠し置いた伏兵が一斉に攻めかかり、大乱戦となった。秀信勢は小勢とは言え奮戦するが、数に勝る東軍方はじりじりと押し、やがて全軍が美濃になだれ込んだ。
 もともと秀信勢は中屋村の木造隊を合わせても三千五百(新加納村の佐藤勢一千は戦線離脱)、東軍は一万八千。数の上では勝負にならないのだが、それでも秀信勢は健闘した。木造具康・百々綱家・津田藤左衛門・飯沼小勘平長資の奮闘にはさすがの東軍も手を焼き、一進一退を繰り返すほどであったという。若武者飯沼長資は一柳家の勇士大塚権太夫を討つなど奮闘するが、やはり兵数の差は如何ともしがたく、乱戦の中に長資も戦死し、秀信勢は木造・百々を殿軍に、境川の第二陣へと退却を余儀なくされた。

 秀信は敗残兵をまとめ、踏みとどまって巻き返そうとした。再び激戦となったが、もはや勢いの差はどうしようもなく、秀信勢は敗れて岐阜城へと退却する。しかし新加納村の遊軍佐藤方秀は遂に岐阜城へは戻らず、自領の上有知(こうずち)に引き上げた上、城を放棄して姿をくらませたという。彼については岐阜城百曲口で戦死したとの説もあるが、ここでは後の大坂役の際に籠城して戦死(『清泰寺文書』『飛州史』『佐藤系図』等)との説を採用させていただくことにする。
 東軍は深追いはせずにただちに勝報を家康に報せ、この夜は岐阜城麓を流れる荒田川左岸一帯に宿営、夜襲に備えて夜を明かした。そして翌日、岐阜城への総攻撃が始まった。


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