関ヶ原に散る

健闘した三成勢もやがて支えきれず敗走します。午前中の戦いで被弾負傷していた左近は新吉戦死の報に接し、無謀を承知で敵の大軍に突っ込みます。そしてここでついに人生の終幕を迎えます。


関ヶ原に散る

 未の刻、遂に健闘していた石田隊も東軍の猛攻を支えきれずに四散し、三成はかろうじて伊吹山方面へ脱出した。そして、左近は最後の力を振り絞って敵陣に突入、ここでついに戦死を遂げたとするのが一般的な説であろうか。しかし、今なお脱出生存説が根強くささやかれている。
 それはやはり左近の首が家康の実験に供されていないからである。左近ほどの武将を討ち取ったとなれば相当な戦功であり、たとえ「死に首」であっても家康のもとへ供されるはずであろう。にもかかわらず、左近の首はおろか、遺体さえ発見されていないのである。
 ここで、左近の消息について記した書物について、今一度ざっと紹介すると

「被弾し倒れる」・・・『関ヶ原合戦大全』、『落穂集』、『黒田家譜』、『故郷物語』等
「戦死」・・・・・『関ヶ原合戦誌』、『関ヶ原合戦大全』の一説、『関ヶ原軍記』、『戸川記』等
「生死・行方不明」・・・・・・『関ヶ原状』、『慶長年中ト斎記』、『武徳安民記』等
「佐和山城で自刃」・・・・・・『福島大夫殿御事』
「対馬へ脱出」・・・・・・『関ヶ原軍記大全』
「西国へ脱出」・・・・・・『石田軍記』

 となり、実に諸書様々であることがおわかり頂けると思うが、ここで『戸川家譜』の記述に少し注目してみたい。

 「金吾秀秋裏切して、大谷刑部少輔を打取、西勢先跡となく惣崩して伊吹山へ大方逃登る、島津計人衆一ツに丸く成りて、海道を直に退ける、落人是を頼ミに従ひ行者ハ、大坂まで心易く引ける、肥後守方の手ハ、初より定のことく加藤左馬之助先手にて、治部少輔陣所の山へ押よセ、石田三成家士六、七十騎、柵を破り一同に突て出、左馬之助勢左右に開き押包、一人も不残打取ける、此手惣勢ハ備て、抜落ハ可打取迚見物す、扨も見事成る打留様と何も被仰也、三成ハ談合迚出て我陣所に不居して、直ニ逃落ける、家人右之外散々に不残逃失ぬ、此出大将ハ島左近といふ説あり(後略)

 つまり、「戸川勢は加藤嘉明の先手となり、小早川秀秋の裏切りの後に三成の陣所へ攻め寄せた。その時、三成勢の六、七十騎が柵を破って出撃してきたのでこれを押し包み、一人残らず討ち取った。この時出撃してきた大将が島左近という説がある」ということである。『戸川記』にも「嘉明の先手と戰切死せし大将ハ島左近也と云り」とあり、家譜とほぼ同一内容の記述がある。
 左近は開戦早々に黒田隊の銃撃で負傷したところまでは判明しているが、当日戦死したとする説が有力ながら、その終焉については未だに不明である。これらの記録は「此出大将ハ島左近といふ説あり」「切死せし大将ハ島左近也と云り」と表現こそやや弱いが、小早川秀秋の裏切り後に左近を討ち取ったとしている点が注目されよう。この時点では左近の嫡男新吉信勝は既に藤堂勢に討たれていた。左近は朝の戦いで身に重傷を負っており、その上に息子の死を報されたわけである。人情的にも左近は死に場所を求めて玉砕覚悟で突撃したと見たいところであり、そうなると戸川勢に討ち取られたとする説も、今一度注目し直す必要があろう。

 というのも、左近着用と伝えられる五十二間筋兜が静岡市の久能山東照宮博物館に、また兜の「忍びの緒」が岡山県早島町の戸川家記念館にそれぞれ現存するが、これらは戸川逵安が左近を討ち取った際に得たと伝えられるものだったのである(兜は大正四年に戸川安宅氏から東照宮に奉納)
 久能山東照宮側のご厚意により今回この兜を直接拝見させていただく機会を得たが、前立は欠失しており、巷説に言う「朱の天衝」の痕跡は認められなかった。
 もちろんこれが事実左近の着用していたものかどうかはわからないが、戸川家には左近の鎧も家宝として伝えられていたという。残念ながら鎧は火災により焼失してしまったが、地道な調査を重ねていけば、いつかまた左近ゆかりの品の発見にも繋がることと思う。
 各地に生存説も根強く残ってはいるが、いずれも傍証がなく伝承の域を出ず、やはり現時点における結論としては関ヶ原に散ったとするのが妥当であろう。

島左近清興、慶長五年九月十五日関ヶ原笹尾山下に散る。享年不詳。

2002年6月16日 文責:Masa 禁無断転載


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