大和の国人・島氏

筒井家で重きをなし、「鬼の左近」と呼ばれて怖れられた島左近。彼の出自には諸説あり、はっきりとは判っていません。謎の闘将・島左近の実像に迫ってみます。


大和の国人・島氏

左近自筆の署名と花押  島左近。名は諸書に清興・勝猛・清胤・友之・昌仲と様々に見られるが、『根岸文書』に「清興」なる自筆書状が残っており、少なくとも筒井家時代には「清興」を名乗っていたことは間違いないと思われる。左はその自筆署名と花押で、「嶋左近清興」と読める。彼の出自については大和・近江・尾張・畿内・対馬などの諸説があって、いまだに特定されるには至っていない。なお『姓氏家系大辞典』(太田亮著 角川書店)の島氏の項には36の項目があるのだが、ここでは取りあえず大和国説を採用して話を進めることにする。

 島氏は大和平群(へぐり)郡の国人で、同郷の国人曾歩々々(そぶそぶ)氏とともに鎌倉時代の末に武士化、春日社国民となり興福寺一乗院方坊人として同院から福貴寺(ふきでら)や大内庄下司職を与えられ、現在の奈良県生駒郡平群町椿井一帯を支配していた。島氏が筒井家の武将として歩み出したと思われるのは、長禄四(1460)年の河内畠山氏の内紛においてからで、島氏は筒井氏とともに畠山政長に加担し、義就軍を撃退した記録がある。『群書類従 合戦部』所収の『長禄寛正記』には「河内勢は高安の馬場の崎にて、二手に分け、島の領内福基のをうたうと云ふ所には、(以下略)」とあり、「福基のをうたう(福貴の大塔)」が「島(氏)の領内」であった事が見て取れる。島氏の全盛期(左近の代)には平群郡のうちで一万石ほど領していたらしいが、左近が同氏の出自(血縁者)かというと、それを記した「信頼できる資料」は見あたらない。
 『多聞院日記』によると、永禄九(1566)年の頃に嶋の庄屋は裕福であるという評判が立ち、この庄屋なる二十五歳の人物が翌十年六月に平群「嶋城」に乱入、父の豊前守や養母など一族九人を殺害して(豊前守は逃げたようである)城を手に入れたとされ、これが左近ではないかともいわれる。とすると戦国期という風潮や何らかの事情はあるにせよ、結構「あくどい」こともやっている。が、この人物が左近である確証はない。
 「嶋城」という表記は同時期にしばしば見られる。これは推論ではあるが、下垣内(しもがいと)城または同城の南に谷を挟んで隣接する西宮城のことか、あるいはこれらを合わせた総称、さらには椿井城はじめ島氏の領有する平群の城全てを総称してこう呼んだのかもしれない。つまり、「嶋さんの城」というほどの意味であろう。


左近の城と館
椿井城跡の遠景  さて、平群町の南東部・矢田丘陵の南西端に位置する尾根上には、島氏全盛期のころの居城と伝えられている椿井城跡(現奈良県生駒郡平群町椿井)がある。島氏は文明十八(1486)年、椿井氏と争い椿井懐専(越前守政里)を討ち取っており(『巨勢系図官務録』)(注1)、椿井方木沢・龍野・郡山氏を島左門友保が撃破している記録がある。もし左近が大和出身なら、この「島左門友保」なる人物は左近の祖に当たるかもしれない。
 島氏は後に同城に拠ったと思われ、平群町のお話によると、築城者は現時点では不明であるが、少なくとも左近の手で修築整備はされたものと見て良いだろうとのことである。後に筒井家の家老職を務め、松蔵右近勝重(重信)とともに「筒井の右近左近」と呼ばれる勇士としても知られていた左近はここを居城とし、信貴山城の松永久秀と激しい戦いを行った。なお、島・松蔵両氏に森氏を加えて「筒井の三老」という場合もある。写真は椿井城跡の遠景で、この城は尾根伝いに南北に300m程の規模で築かれており、写真中央部の山上が本丸のあったあたりである。
【注1】椿井氏系図によると、越前守政里は文明十七年十二月二十八日に討死とある。

左近の居館跡  ところで、左近の居館跡(=写真右)と伝えられる場所が、椿井城の西麓・平等寺地内にある。位置としては、上の写真の中程左に見える民家の裏手にあたる。現在は竹藪となっているが、御覧のように周囲にめぐらせた堀の護岸と思われる石垣跡が見られ、石組み井戸や土塁跡も残っている。あいにく竹薮(道?)の状態が悪く、中に入ってじっくり見ることが出来なかったのが残念であるが、地元の伝承とは言え、場所的に考えて左近がこの館に住んでいたことは大いに考えられる。平時はここで家族郎党とゆったり暮らし、戦時には城へ詰めて戦うといった生活をしていたのではないだろうか。現にこの裏手にはかつて城跡へ通じる道があったのだが、現在は崩れてふさがっており、山上(城跡)へ登るための道は残っていない。

 余談だが、現在椿井城跡への登り口はない。しかし、山上にはちゃんと遺構が残っているそうである。取材に当たって「椿井城跡遺構分布図」を含めた多数の資料をご提供いただいたが、それを見ると堂々たる山城であり、この地の重要性と左近の筒井家に占める位置がわかるような気がする。で、それほどの城で登り口がないと聞けば、登ってみたくなるのが人情。さっそくトライしようとしたが、裏手に回ってみて早々に断念した。興味のある方は こちらの写真 を御覧頂きたい。左下のカーブミラーがその規模を物語っているが、裏手はずっとこんな調子の山肌が続く。はっきり言って、平服では無理である。

 この他にも、平群町に残る前述の西宮城・下垣内城も島氏関連の城とみられており、特に下垣内城のすぐ下には近年まで安養寺という寺があり、左近の母のものとみられる位牌(注A)が残っている。
【注A】安養寺に残る位牌については『日本城郭大系 10』の「西宮城」の項に「嶋左近の位牌を祀り」とあるが、同寺に残る位牌は「嶋佐近頭内儀」のものであり先代左近の妻(左近の母)のものとみられる。


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