島津の敵中突破
〜午後二時の関ヶ原〜

西軍は次々と伊吹山方面へ敗走、戦場には島津隊のみが残されました。義弘は玉砕を考えますが、周囲の諫めにより思い直して戦場離脱を決します。そのすさまじい退却戦の模様は「島津の敵中突破」として今なお語り継がれています。

決戦地
東軍中央勢(東側)から見た決戦地と島津陣パノラマビュー

島津の敵中突破

 さて、戦場には島津勢だけがいた。上の写真は東軍の中央勢から見た決戦地一帯と島津陣の位置である。これは4枚の写真から合成したもので、島津以外の諸勢(この時までに既に戦場離脱) は開戦時における布陣位置を表している。
 義弘は西軍諸将の兵が敗走する様を見て大いにその卑怯を怒り、自ら家康の本陣に突入しようとした。義弘は甥の豊久と家老の阿多盛淳を呼び、「背後の伊吹山は峻険にして越え難く、前面には勝ち誇った内府の大軍が控え、これまた切り抜けるのは至難の業。わしももう六十六、この年になって石田ごときに加担して敗れを取るとは口惜しい限りじゃ。かくなる上は東に陣する内府の旗本に斬り込んで火花を散らして戦い、潔く討死しようぞ」と決意を述べる。
 それを聞いた豊久は兜を脱いで脇に置き、「殿は島津家にはなくてはならぬ御方。ここで討死されては御家の為になりませぬ。私が殿に代わってその役を相務めさせていただきます」と懇願するが、義弘は首を振って聞き入れず、「それはよくわかっておる。しかし譜代の臣数百人が討死し、戦い疲れた小勢にてどうやって遠く薩摩まで敵地を通過して帰り着けようか。追い付かれて見苦しい死に方をするより、大敵に当たって玉砕しようぞ」と言う。
 豊久は重ねて今度は大声で「今日の戦いは秀頼公の為にやむを得ず参陣したのでございましょう。石田等の企てに加担したわけではありませぬ。内府公もこれはよくご存じのはず。帰国の後に和議を願い出れば、多少の処分は受けましょうが御家を滅ぼすことはありますまい。万一討死されようものなら、忠恒公が内府を不倶戴天の敵と憎むやもしれず、そうなると御家は滅亡でございますぞ」
 阿多盛淳も豊久に同調して強く帰国を勧めた。二人の熱意に義弘もついに折れ、では何としてでも帰国を遂げようと決意する。そして陣羽織を脱いで豊久に与え、旗を阿多盛淳に預けたのである。ここから後世に「島津の敵中突破」「島津の前退」と長く語り伝えられる壮絶な退却戦が始まった。


壮絶、烏頭坂

奮闘する島津勢  島津勢は小勢といえども義弘を中心に厳重に備えを固め、まさに一丸となって動き出した。義弘は馬に跨り、白い采を振って「かかれえ、かかれえ」と号令を掛けながら突進するが、これは端から見ると紛れもなく家康の本陣に突入するように見える。家康の本陣・陣場野は小池村の島津陣からは500m程しか離れていなかったが、陣場野の備えはやはり固かった。加えて島津隊の進路に位置していた家康旗本勢の先鋒酒井家次が、島津勢が本陣に突っ込んでは一大事とあわてて軍勢を本陣の守備へ廻したため、島津勢は家康本陣前を斜めにかすめるようにして突進していった。一部の文献には「急に道を変え」と書かれたものもあるが、島津勢はもとから家康本陣に突入しようとしていたわけではない。道が斜めになっているため家康側から見ると、そう見えたのであろう。
 画像は『関ヶ原合戦図屏風』に見られる島津勢の様子であるが、これは戦場を脱出しようとするこの時の模様を描いたものではないかと思われる。
 ここに至って家康は義弘の真意(退却)を知るが、一丸となった薩摩兵は剛強で、その進路の脇に位置していた福島勢はあまりの勢いにあっけにとられてこれを見送り、不幸にも島津勢の進路を遮る形となった筒井定次の家老・中坊飛騨守隊は一瞬のうちに備えを蹂躙されてしまった。この時島津勢の先鋒を務めた川上左京亮・同四郎兵衛・同久右衛門・久保七兵衛・押川六兵衛の五人は後に「小返の五本槍」と称される活躍を見せたと記録にある。

現在の烏頭坂  これを見た家康は島津勢の戦い振りに感嘆し、こちらもまた「かかれえ」と下知する。これを受けて追撃に出たのは本多忠勝・井伊直政・小早川秀秋等で、忠勝は苦戦する中坊勢に救援に駆けつけるが、飛騨守三男(次男とも)の三四郎は島津勢に討たれてしまう。島津勢はなおも追撃を受けながらも南下、現在のR21関ヶ原西町交差点付近で福島正之勢を蹴散らし、関ヶ原を抜け牧田の烏頭坂(うとうざか・現養老郡上石津町牧田)へたどり着いた。しかしここで本多忠勝・井伊直政等に追い付かれて激戦となり、豊久が殿(しんがり)を務めて奮戦するが、ついに討死を遂げる。写真は南側(牧田側) から撮影した現在の烏頭坂だが、関ヶ原町のお話によると当時の道筋はこれより少し左(西)側にあったそうである。
 豊久戦死の状況は諸書様々に描かれているが、もっともすさまじい描写のなされている『関原合戦進退秘訣』の一節をご紹介しよう。読みやすくするため、句読点は後補した。

 「時ニ井伊兵部直政、本多中書忠勝己ガ兵ヲ発シ、薩摩勢ヲ切靡ケ中坊ガ危キヲ助ケテ戦ヒケルガ、中ニモ忠勝ハ己ガ馬廻リ勇士ヲ進メ迫リ来リ、豊久ヲ追取込メ十方ヨリ突掛リ、鎗七八本ニテ六七度鎗玉ニ上リ、見ルガ内ニ豊久猩々緋ノ羽織散々ニ裂テ飛散リ、首ハ筑前中納言秀秋ノ先手ニ進ミケル小田原浪人笠原藤左衛門之ヲ取ル。豊久ノ旗下勇士十三騎モ又大ニ戦ヒ、豊久ノ前後ニ枕ヲ並テ打死ス。豊久打死ノ次第ヲ以テ此時敵味方共ニ戦ノ烈シキヲ知ルベシ」

 豊久、享年三十一歳であった。これには異説もあり、豊久は烏頭坂で重傷を負ったものの、家臣に助けられて南へ二里ほどの所にある多羅の瑠璃光寺(現上石津町上多良) までたどり着いたが、傷は深く皆の足手まといになるのを恥じて同地で自刃したとも伝えられている。なお、瑠璃光寺横の通称「カンリン薮」には豊久の墓が現存している。(「史跡探訪・関ヶ原周辺」のコーナー参照)


義弘、危地を脱出

 豊久が身を挺して東軍を食い止めたおかげで、義弘と東軍勢の距離が少し拡がった。しかし東軍勢の追撃は猛烈で、瞬く間に再びその距離は縮まる。場所は烏頭坂から約3km程南東へ行ったところにある牧田村の大門付近、ここで再び東軍の前に立ち塞がったのが阿多盛淳である。彼は数十人を率いて十文字の旗を押し立て、義弘の名を語り井伊直政勢に真っ向から挑んでいった。「我こそは島津惟新である。武運尽きて今討死にいたす。これを見て武士の手本とせよ!」
 盛淳は死に物狂いで暴れ回り、ここでついに壮絶な討死を遂げた。これはまさに島津家のお家芸「捨て奸」(すてがまり)戦法である。なお、戦没地に近い上石津町牧田の琳光寺には、彼の墓が現存している。(「史跡探訪・関ヶ原周辺」のコーナー参照)
 一説に彼を討ち取ったのは、井伊勢の先手木俣右京のもとに陣借りしていた大和浪人松倉豊後守重政の郎党山本七助義純(『藩翰譜』では山本七郎義弘とある) という。この松倉豊後守重政は、先に戦死した石田三成の家老・島左近と筒井家時代に「筒井の右近左近」と呼ばれた勇将・松倉右近勝重(重信)の子である。

 もちろん東軍にも被害は出た。井伊直政と松平忠吉がそれぞれ負傷したのである。直政は必死に伊勢方面へ逃れる義弘を追うため、忠吉を自分の旗本で固めて守備しながら、騎馬武者百騎と歩卒少々を率いて執拗に追いかけた。若い忠吉は直政より一歩先を進み、馬上より槍を揮って島津勢と戦う。そのとき彼の前に今度は先程述べた川上左京忠兄ら「小返五本槍」の勇士が立ち塞がった。さすがにこの隊は隙がない。忠吉は島津勢を数騎斬って落とすが、松井三郎兵衛という者と激闘した際に籠手を斬られて落馬する。松井は飛びかかって忠吉の首を取ろうとするが、間一髪忠吉の従者が駆けつけて松井を討ち取った。しかし松井の首は乱戦となって取れなかったというから、島津軍の底力はやはりすごい。
 負傷した忠吉は直政の家臣に守られて退却していったが、島津勢はこの機を逃すなとばかり襲いかかる。直政はこの時右手に采を持ち兵を指揮して戦っていたが、その時ススキの間に隠れていた川上忠兄の臣・柏木源藤(『関ヶ原合戦誌』では柏田源蔵とある) という者が直政を狙撃、これが左手(左足外股とも) に当たったため直政はもんどり打って落馬、何のこれしきの傷とばかりになおも追撃しようとするが、忠吉の負傷退却もあり、無念ながらここで追撃を断念した。余談だが、直政はこれより一年五ヶ月後の慶長七(1602)年二月一日に四十二歳の若さで歿するが、それはこの時に受けた傷が悪化したためという。

 一連の戦いで家臣は数十人に討ち減らされたものの、ついに義弘は豊久・盛淳らの奮戦により、この奇跡的な脱出に成功したのである。


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