宇喜多秀家のその後

宇喜多秀家は伊吹山中へと脱出しますが、道に迷い美濃粕川谷(現揖斐郡春日村)一帯を彷徨います。その後白樫村の矢野五右衛門宅へ匿われることになるのですが、この五右衛門なる人物は傑物でした。


義侠の人・矢野五右衛門

粕川谷  秀家は明石全登に説得され、近臣数名とともに関ヶ原を脱出して伊吹山中へと逃れた。従う士は進藤三左衛門正次・蘆田作内・森田小伝治・虫明(むしあげ)九平次・黒田勘十郎・本郷義則・山田半助である。彼らは伊吹山中を北上するが道に迷い、二日間彷徨ったあげく飲み水にも事欠く有様だったという。西軍の敗戦は既に近郷一帯に知れ渡っており、関ヶ原の北にあるこの山中にも落人が逃げ込んでいるとの風聞がしきりで、夥しい数の在郷百姓らが落ち武者狩りをする為に集結していた。秀家一行がそんな粕川谷(=写真)の中山郷(現揖斐郡春日村中山)に差し掛かったところ、落武者狩りの猟師たちの一団に出会った。

 猟師たちのリーダー格は矢野五右衛門という人物で、彼は初めこの落武者達がそこそこの侍であろうと見て、良い獲物に出会ったとばかりに槍を取り直して近づいた。しかし、よく見るとどうも唯人とは思えない気品がある。彼は何となく秀家が哀れに思え、「仕留める」べきかどうか迷っているところへ秀家が声を掛けた。

 秀家「おう、良いところで出会った。ここはどこであろうか。腹も減ったし道に迷って困っておる」
 矢野「ここは落人の詮議が厳しゅうござる。もはや逃げられますまい」
 秀家「余は徳川方の探しておる西軍の大将・宇喜多秀家じゃ。湯漬けなど振る舞ってもらえば、徳川方に引き渡しても良いぞ。決して恨みはいたさぬ」

 身分をあっさり明かした秀家も秀家だが、これを聞いた五右衛門は卒倒せんばかりに驚いた。その何とも潔い秀家の態度にいっぺんに魅了されたのか、五郎右衛門は瞬時に態度を改めた。
 矢野「存ぜぬ事とは言え、ご無礼の段は平にお許し下さいませ。万事は私めにお任せ下さいますよう」

 この言葉が嘘でなかったことは、その後の五右衛門の行動にはっきりと現れる。

 ここで矢野家の下僕九蔵の背に負われた秀家は進藤と黒田の二名を供として白樫村(現揖斐郡揖斐川町白樫)の矢野家へと案内され、他の従士は大坂の備前島屋敷へと向かった。
 一説に、矢野五右衛門重昌は元前田家の家臣で、進藤三左衛門の姉滋野が五右衛門の妻となっている誼で秀家は矢野家の門をたたいたとも言う。いきさつはともかく、秀家はこうして矢野家の裏にある穴蔵へと導かれ、五右衛門は四十日以上の長きに渡って秀家を見事匿い通すのである。
 実際に現地を訪れてみたが、矢野家は山裾の道の突き当たり一番奥にあり、御子孫が今なおご健在である。まさにこれは歴史のロマンであり、その庭には「宇喜多秀家公匿居の地」と刻まれた真新しい立派な石碑が建てられているのだが、その揮毫は秀家の御子孫の方によるものであった。思わず感動。実に素晴らしい光景である。


夫人との再会

 さて十月半ば、ここで進藤三左衛門は京都に潜行して秀家の無事を伝え、秀家から脇差しを請い受けて伏見の徳川屋敷へ「自首」する挙に出た。
 「主君秀家は自刃し、遺体は荼毘にして高野山へ葬りました」  秀家の脇差し「鳥飼国次」を差し出して届け出た三左衛門は本多正信預かりとなるが、徳川方も全面的には信用してはいなかっただろうが、このおかげで詮索の手が緩められたのである。そしてその隙を突いて今度は五右衛門が動く。
 彼は黒田勘十郎とともに秀家を病人に仕立てて乗り物に乗せ、有馬に湯治に出かける体に見せかけて白樫村を出立、近江武佐を経て翌日伏見に到着する。ここで乗合舟に乗るが、重病人につき許されよと乗り物のまま乗せ、一旦大坂天王寺にいる五右衛門の知人宅にかつぎ込んだ。そして四日後、夜に紛れてついに秀家は宇喜多屋敷に到着したのである。

 もはや秀家は此の世の人ではないと思っていた夫人(前田利家の四女・豪)の喜びは非常なもので、嬉し涙が止めどなく流れたという。その後五右衛門の帰郷にあたり、このほどの労に対して秀家は、「世に出るときあれば必ず持参せよ」とかつて秀吉から秀家に下された朱印状を与え、さらに黄金三十枚と妻へは三重ねを贈って労をねぎらった(金額や引き出物は諸説あり)。そして秀家は五右衛門に対し、次のように礼を述べたと伝えられるが、秀家の人柄がにじみ出ているような気がする。
 「そなた夫婦の温情は生涯忘れぬ。秀家、深く身にしみたぞ」

 こうして五右衛門は大役を務め果たして郷里へ帰るのだが、秀家から最大級の賛辞を送られた彼も満足であったろう。記録に以下のようにある。(句読点は後補)
 「五右衛門俄ニ徳付在所ニ帰リ、歓喜祝着スルコト限リナシ。是ヨリ五右衛門富貴ノ家ト成テ、子孫迄所ノ長者ト成ケリ」(『関ヶ原大條志』)

 上記の朱印状は矢野家の家宝として、今なお大切に保管されている。


薩摩へ、そして八丈島へ

 秀家は大坂屋敷に居着くが、さすがに長居は出来なかった。秀家夫人は実家の加賀前田家に相談するが、前田家としてもこれ以上引き続いて見て見ぬ振りをすることは難しく、夫人に対しては、徳川方に差し出すか九州へ落とすかの二者択一を迫ってきた。彼女は徳川方に差し出すことは断固出来ないと懇願、前田家でもこれを容れて秀家を薩摩へと落とすことに決した。なおその際、夫人は加賀へ戻ることとなった。

 翌六年六月、秀家は薩摩に入った。島津家では大隅郡牛根郷の平野家に彼を迎え、平野氏は徹底した防御態勢を敷いて彼を守った。しかし、これも長続きしなかった。島津家と徳川家で和解が成立した際、秀家を引き渡すことになったのである。慶長七(1602)年十二月二十八日、島津忠恒は徳川方に秀家の助命を請う。むろん前田家も嘆願した。こうして秀家は徳川家へと引き渡されることとなり、翌八年八月六日に大隅牛根より伏見に護送された。この際平野家は秀家の引き渡しを拒み、窮した島津家は強硬手段をとって秀家を拉致したというエピソードが残されている。
 九月二日、秀家の助命は約束され駿河久能山へと移される。しかし、大名への返り咲きはならなかった。徳川方としては島津家のメンツを潰さないように助命はしたものの、秀家の処断には頭を悩ませていたようだ。この間にも島津・前田家からの嘆願は続くが、ようやく「徳川幕府」としての決定が下されたのは慶長十一(1606)年五月のことであった。内容は「八丈島遠島」である。

 島津・前田家としてはこの沙汰は不本意であったが、幕府にたてつくことは出来なかった。こうして秀家一行は十三人で伊豆網代から乗船、下田で風待ちをして八丈島へと向かう。そして八月十八日、船は一ヶ月以上かかって八丈島に到着した。
 八丈島でのエピソードも二、三あるが、ここでは省略させていただく。秀家は島でこの後約五十年を生きたのだが、どのような気持ちで暮らしていたのであろうか。彼が歿したのは明暦元(1655)年十一月二十日、享年八十四歳であった。

 宇喜多一族は明治の大赦まで、二百六十四年間にわたって刑を解かれなかった。


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