他の主要諸将のその後

ここでは、小西行長・安国寺恵瓊・長束正家ら他の西軍主要諸将のその後をまとめて簡単にご紹介します。


小西行長のその後

 行長は関ヶ原の戦場を脱出して伊吹山中に逃げ込み、同山東北一帯の池田郡粕川谷(先述・現揖斐郡春日村)を彷徨っていた。つまりは前述の宇喜多秀家と同じ場所にいたのである。そして彼はもはや逃亡する気力を失っていたと見え、たまたま戦乱を避けて粕川谷へやってきていた関ヶ原の住人・林蔵主という者が通りかかったところ、行長の方から声を掛けたという。

 「そこなるお人、こちらへ来られよ」
 「私に御用などと言うよりも、どこなりとも早く落ちられませ」
 「いやいや、ぜひこちらへ来て欲しい」

 林蔵主が行長の方へ近づいていき、改めて何の御用でしょうかと尋ねたところ、

 「我は小西摂津守である。内府のもとへ連れて行って褒美を取られい」
 「これはもったいない。一刻も早くお逃げなされ」
 「いや、何処ぞで自害するのは易いことだが、わしはあいにくキリシタンでな。その宗旨では自害は重く禁じられておるのじゃ」

 行長は色々と林蔵主を説得した。近所の百姓等もこれを聞いていたこともあって、さればと彼は行長を自分の宿へと連れて帰ったという。
 家康のもとへ送り届けようにも行長は肥後半国の領主、万一奪い返されては大変と思った林蔵主は、領主の竹中重門にこの旨を届け出た。重門は行長を馬に乗せた上で家臣の伊藤半右衛門に足軽数十人を添えて家康のもとへ届けさせ、彼は草津で村越茂助の旅篭に預けられた。林蔵主は褒美に黄金十枚(異説あり)を貰ったという。戦いからわずか三日後、九月十八日のことであった。
 余談だが、『改正三河後風土記』ではこの林蔵主は悪僧として描かれており、「慈悲善根を行ふべき釈徒の身にて、落武者を訴人して賞金を授り、手柄顔する悪僧と、是を見るもの憎まぬはなかりけり」とこっぴどくこき下ろされているのが興味深い。

 以下は略す。十月一日、行長は三成、安国寺恵瓊とともに京都六条河原の露と消えた。享年不詳。


安国寺恵瓊のその後

 安国寺恵瓊は敗勢が確定するや、毛利秀元の隊に紛れ込んで近江へと入った。しかし秀元が東軍に通じている様子を見て取った彼は急に秀元隊から離れて朽木谷(現滋賀県高島郡朽木村)へと向かい、山城坂を越えて八瀬小原を過ぎ、鞍馬の月照院へ隠れた。
 しばらくここに潜んでいたが、やはり落ち着かず不安に襲われた恵瓊は密かに鞍馬を脱出して京都六条に隠れ住んだ。ところが運悪く、彼に旧怨をもつ近江の楽鎮という者が恵瓊を発見して所司代の奥平信昌に届け出た。信昌は直ちに家臣鳥居庄右衛門に命じて恵瓊の捕縛に向かわせるが、これを密かに探知した恵瓊は家臣の平井藤九郎と長坂長七とともに駕籠に乗って逃走する。

 しかし程なく捕り手に囲まれてしまい、平井は主人が捕縛される屈辱を嫌って駕籠を一刺しし、長坂とともに捕り手と斬り合いを演じて討ち取られた。運が良かったのか悪かったのか、平井の刀が外れたため恵瓊は頬に傷を負うが命に別状はなく、ここに所司代の手に捕らえられた。恵瓊は九月二十二日に大津に送られ、家康は彼を村越茂助に預けて小西行長と同所に幽閉させた。

 以下は略す。十月一日、恵瓊もまた三成、小西行長とともに京都六条河原の露と消えた。享年不詳。


長束正家のその後

 長束正家は情勢を把握するため三成のもとに使者を派遣したが、使者は戻って来て西軍総敗軍の旨を伝えた。ちょうどその時、これまで戦況を傍観していた南宮山頂の毛利勢が突如として一斉に勝ち鬨を上げた。これに驚いた南宮山麓の諸隊は動揺してしまい、兵達は我先に潰走し始める。そこへこの機を逃すなとばかりに池田・浅野勢が追い打ちを掛けたからたまらない。長束を始め安国寺・毛利勝永隊は武器を抛り捨てて伊勢路へと敗走した。
 悪いことは重なるもので、ちょうどこの時金屋河原にいた徳永・市橋・横井隊が関ヶ原方面へ進軍してきたのにぶつかってしまったのである。敗走中の兵は弱い。長束勢は散々に討たれて伊勢街道へと逃れていった。ただ長束勢の中にも気を吐く武士はいた。松田金七(金七郎とも)という兵士は熊手を得物に敵を引っかけては倒し、なんと数十人を斬って落としたという。しかし彼も遂には力尽きて戦死し、後に数多い兵の中で唯一人天晴れな働きと称賛されたと言うが、彼の働きが「唯一人」と称賛されるほど長束勢は何ら働いていなかったのである。
 正家は伊勢を経由して居城水口城へと戻ろうとするが、大鳥居(現三重県桑名郡多度町大鳥居)付近でまたまた今度は伊勢長島城から三百七十余の兵を率いて進軍してきた山岡景友(道阿弥)と鉢合わせとなる。景友は願ってもないチャンスとばかりに大音声で彼に呼びかけた。
 「そこへ来られしは長束殿とお見受けするが如何に。かく申すは山岡道阿弥景友である」
 正家は覚悟を決め、残兵四百をもって必死に戦った。しかし、如何せん長束勢は敗走の兵、たちまちに山岡勢に斬り立てられ百余人の死者を出し、這々の体で水口城へとたどり着き籠城の準備を始めた。彼は配下に甲賀衆を抱えており道に迷うことはなかったであろうが、散々な敗軍であった。

 家康は正家が籠城したと聞くと、池田輝政の弟・備中守長吉と亀井武蔵守茲矩に、水口へ行って正家に腹を切らせよと命じた。両人は水口へ赴いて正家に使者を送り、「もはや抵抗は無駄である。早々に降参開城して子孫の後栄を計られよ」と伝える。家臣達の多くが逃げ出してわずかばかりの人数となっていた正家は観念し、同意の旨を伝えて家人を引き連れ、蒲生郡櫻井谷の民家(中西孫左衛門宅・現滋賀県蒲生郡日野町中之郷)へと移って行った。
 「子孫の後栄を計れ」・・・嘘っぱちであった。家康の命を受けている池田・亀井の両名は元より正家を助けるつもりなどなく、十月三日、櫻井谷へと押し寄せる。正家は一瞬謀られたかと思っただろうが、もはや後の祭りであった。彼は観念し、ここで弟の伊賀守直吉とともに自刃した。享年不詳。程なく池田・亀井両人が水口城の蔵を点検したところ、黄金五千枚・銀三百貫目・金熨斗付きの刀脇差千腰と金銀をちりばめた財宝類が山と出てきたという。

 それらの金銀財宝は悉く池田・亀井に与えられたそうな。


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