無念の最期を遂げた武将 TOP3

戦国時代には、いわれのない罪をかぶせられて誅殺されたり、ただその存在が邪魔だという理由だけで殺された武将も多数いました。ここでは、そういった「無念の最期」を遂げた武将たちの中から、私の独断により3人を選んで紹介します。


第1位 柿崎景家(かきざき かげいえ)

 景家は上杉謙信麾下筆頭の猛将である。謙信の関東進出時や信玄との戦い、加賀侵攻など大小を問わず数々の戦いに常に軍功をあげている侍大将である。
 かの永禄四年の川中島合戦の際にも先鋒大将を命ぜられ、漆黒に彩られた軍団で真っ先に武田軍に切り込んだことで知られているが、上杉家随一の猛将という割にはあまりその勇姿がはっきりと伝えられていないのは不思議である。
 この川中島合戦の際には乱戦の中に信玄の弟信繁を討ち取り、さらに山本勘助の首も景家の郎党があげている。もしこの合戦が謙信の勝ちに終わっていれば、文句無く景家がその戦功第一であったことは間違いない。しかし、戦いは歴史の示す通り痛み分けであった。こんな景家に、不幸は突然訪れた。そのいきさつは以下の通りである。

 1575(天正三)年、上杉家中三百騎を預かる彼は、さしあたって不必要な馬の処分をと上方へ馬を売りに出した。上杉家は上方とは青苧(あおそ=麻の原料)等の流通で交流がある。これを聞きつけた織田信長が、その馬を「越後産の馬は非常に質が良い」とことさら高価な値で買い取り、礼書と時服をわざわざ彼の元へ送り届けた。もちろんこれは君臣離反を策した信長の謀略であろう。彼が謙信へこの報告をしてさえいればよかったのだが、景家は報告しなかった。これが謙信に事後「彼にもう少し分別が有れば・・・云々」と愚痴めいたことを言わせることになる。やがて来るであろう織田家との決戦を前に、「謙信公は自分を信用してくれている」と思い込んでいたにせよ、やや軽率というか短慮であったことは否めない。
 これを探索した軒猿と呼ばれる諜者の報告から謙信は景家内通と断じ、有無を言わせず景家を水島に攻めて殺してしまった。そのとき景家は「このような謀事に易々乗せられるようでは先は望めない」と言って果てたという。これは確たる資料ではないが、こういう話が残っている。
 謙信が関東在陣時に敵武将の娘に恋をした。景家がそれを引き裂き、為にその娘は尼になった上に自害したため、謙信はこれを恨みに思っていたという。だから申し開きのいとまを与えず成敗したというのである。少々脚色された感が強いが、全くの作り話とも言い切れない。

屋代柿崎家の家紋 【Photo:屋代柿崎家墓所にある家紋(更埴市)】
 そして、謙信が卒中で歿したとき、巷で「夜な夜な無実を訴える景家の亡霊に苦しめられて死んだ」とまことしやかにささやかれたのは、周りの人々が景家に同情的な感情を持っていたためではないか。
 何度か離反した椎名康胤や神保長職、北条高広らに対しては寛大な態度を示し降伏を受け入れている謙信が、なぜ景家だけ有無を言わせず誅殺してしまったのか。詳しい資料がないだけに何か釈然としない。

 ともあれ、こうして越後随一の猛将は、あまりにもあっけなく地上から消えた。




第2位 織田信孝(おだ のぶたか)

 彼は織田信長の三男であるが、実は異母兄で次男とされる信雄より二十日ほど早く生まれていたらしい。しかし、彼の母(坂氏)の身分が低かったこともあり、三男とされたようだ。これが面白くなかった信孝は兄信雄とはあまり上手くいっていなかったのだが、ここに彼が非業の最期を迎えたひとつの伏線がある。

 信孝十一歳の1568(永禄十一)年、彼は北伊勢神戸城主・神戸具盛の家を継いだ。これは伊勢統一を進める信長が、神戸具盛を誘降させた際にその後嗣にと送り込んだものである。
 彼が俄然歴史上に目立ち始めたのは、本能寺の変直後であった。長兄信忠も二条城で果てたため、織田家相続の可能性が出てきたのである。しかし、彼は丹羽長秀と共に四国征伐に備え明智光秀軍に一番近い摂津住吉にいながら、しかも変を聞いて光秀の女婿津田信澄をただちに討ち取りながら手勢が七千と少なかったため、弔い合戦の主導権を秀吉に奪われてしまう。後の歴史を見れば、これが彼一代の不覚であったろう。
 山崎の合戦の際にもし信孝が秀吉を指図して臨んでいれば、後は大きく変わったであろう。しかし、信孝は秀吉と合流したものの、戦の指揮は秀吉が執った。そして光秀は敗死し秀吉の株がさらに上がって「運命」の清洲会議を迎える。

 ここで秀吉と仲の良くない柴田勝家は信孝を推して会議に臨んだが、結局秀吉の意見に押し切られて家督は信忠の嫡子三法師に決まり、信孝は三法師の補佐役として岐阜城と美濃一国を得るにとどまった。彼は約束を違え三法師を岐阜城から出さなかったため秀吉と対立、城を囲まれて降伏に近い和睦を結ぶ。翌1583(天正十一)年柴田勝家が秀吉と対立したとき信孝もそれに呼応して挙兵したため、信雄に攻撃されて尾張知多半島の内海へ逃れる。

野間大御堂寺
【Photo:信孝が自刃した野間大御堂寺(愛知県美浜町)】
 程なく賤ヶ岳の戦いが起こり、勝家は敗れて北ノ庄城で4月24日に自刃する。秀吉に上手く踊らされ、信孝を消せば自分が織田家の事実上の跡取りになると思い込んだ信雄は、ついに信孝を内海野間の大御堂寺に追いつめた。
 そして5月2日、信孝は秀吉への恨みが骨髄に達したまま同寺において自刃する。その辞世の句がすさまじい。

昔より主をうつみの野間なれば むくいを待てや羽柴筑前

 まだ26歳だった彼の最期は「無念腹」の切腹だったという。



第3位 豊臣秀次(とよとみ ひでつぐ)

 秀吉の甥(母が秀吉の姉・とも)にあたる彼の最終官位は関白である。もとは三好孫七郎と称し小牧・長久手の合戦で初陣を迎えたが格の違う家康に大敗、秀吉の不興を被る。しかし、秀吉の血縁という事実は大きく、程なく秀吉の養子となり近江・伊勢・尾張で百三十万石にも上る大封を受ける。
 さらに内大臣から関白へと立て続けに昇進して聚楽第をその居とするに至り、諸大名からはまさに秀吉の跡継ぎとして見られていた。しかし、ここに秀吉にも秀次にも予期せぬ出来事が起こった。もはや実子の跡継ぎは無理とあきらめていた秀吉と側室淀殿の間に秀頼が生まれたのである。秀次にとってこれはショックであった。そしてこれより世に「殺生関白」と呼ばれた行動を起こすようになってゆく。
 鉄砲の稽古と称して農民を撃ち殺す、不義の噂がある側室が妊娠すると腹を割って胎児の顔を確かめる、殺生禁断の比叡山に登って平然と狩りを行う、「関白殿千人斬り」と称される辻斬りをする・・・。枚挙にいとまがない暴挙である。しかしこれらは秀吉の正当性を強調するため後世にでっちあげられた作り話である可能性が高いので、鵜呑みには出来ない。
 秀吉も秀頼誕生の翌月に、秀次に「日本を五分してその四を秀次に、残りを秀頼に」という懐柔案(?)を示し、秀次も一旦了承する。そして彼は困窮した大名達に金を貸し、それによって自分の味方を増やそうと目論むが、秀吉はもはや秀次に後を継がせる気はなかったと見え、五奉行たちを指図して次々と彼の言動を糾弾し始めてきたのである。もっとも、糾弾されてしかるべき事をしでかしているのは秀次なのだが。

 そして蒲生氏郷死去の際に提出された目録に不正があり、これによって秀吉が蒲生鶴千代(秀行)の改易をしたためた朱印状を発行したが、蒲生氏をかばった秀次が握りつぶすという事件が起き、ついに秀吉との正面衝突に至る。怒った秀吉のけんまくに恐れをなした秀次は人質や誓書を出して弁明に務めたが、もはや後の祭りであった。しかし、この時点で事が終わっていれば、後の惨劇はたぶん起きなかったであろう。しかし、ここで秀次は大失態を演じた。
 高野山蟄居を申し渡された彼は、じっとしていればよかったのだが、何と朝廷に銀五千枚を献上する。これを秀吉は朝廷に取り入って復権を図ろうとする行為と断じ、彼を追放処分から切腹処分に変更したのである。秀次は決してこのような意図の上で寄進したわけではなかったろうが、そのタイミングが悪すぎた。
 1595(文禄四)年7月15日、高野山において秀次は検死役の福島正則らの前で切腹し、27歳の生涯を閉じた。さらに子や妻妾など四十人あまりが8月2日に三条河原で次々と泣き叫びながら斬首された。これを見た市民たちが口々に「太閤さまの世も終わりじゃ」と嘆いたというほど悲惨な光景であったという。

秀次の眠る瑞泉寺 【Photo:秀次と妻妾たちの眠る瑞泉寺(京都市)】
 もちろんこうなった責任の一端は秀次にもある。しかし、事が進むにつれ秀吉側近から睨まれていた秀次は、善意をもってしたことも全て逆に受け取られるという悲運を味わう。そして結局彼が得たものは「死」であった。
 秀次の資質云々を問うよりも、叔父があまりにも偉大な秀吉であり、実力や人望見識が備わる前に位人臣を極めてしまったことが、彼をこのような最期に導いた一番の要因と思えてならない。
by Masa