大力無双の豪傑武将 TOP3

戦国時代には、力衆を超え合戦時にその怪力をいかんなく発揮して活躍した、いわゆる「豪傑」と呼ばれる武将も多々存在しました。ここでは、それら大力無双の豪傑たちの中から、私の独断により3人を選んで紹介します。


第1位 鬼小島彌太郎(おにこじま やたろう)

 正しい名は小島彌太郎一忠という(異説あり)。極めて実像の掴みにくい武将だが、越後長尾(上杉)家にこの人ありと恐れられた猛将である。

 彼は長尾景虎(上杉謙信)の幼少時からの側近で力士衆であったとも言われており、六尺を超える威丈夫だったと伝えられる。また景虎が十四歳で修行に出た際に同行した四人のうちの一人で、1547年の栃尾の戦いで戦死したと言われる一方、永禄四(1561)年の川中島の合戦の際には山県昌景に「花も実もある勇士」と称賛されたという伝承もあり、諸説様々でどれが正しいのかはわからない。そこで史実はさておき、巷説における彼のエピソードを紹介することにしよう。

 まずは天文二十二(1553)年の謙信上洛時のこと。将軍足利義輝のもとには長宗我部氏から献上されたという凶暴な大猿が飼われていた。そこで義輝はこの猿を使って謙信の肝試しをしてやろうと企んだ。つまりこの猿を謙信の通る道端から飛びかからせ、謙信がどのような反応を示すか見てやろうというのである。
 しかしこれは事前に謙信の諜報網に察知され、謙信は彌太郎を一足先に京へ先行させた。さて彌太郎はその大猿が飼われている番所の役人に取り入り、その檻に近づき餌を一つ二つ与えた。そして三つ目の餌を取ろうとした猿の腕を捕まえ、力まかせに鉄格子に押さえつけて猿を睨みつけた。さすがの大猿も三十人力といわれる彌太郎の怪力にはたまらず、苦しみ悶えて泣き叫んだという。
 さて上洛当日。謙信一行の通る道端にはこの大猿が繋がれ、牙をむいていた。しかし謙信一行がその脇を通り過ぎた時、何と大猿は怯えて平伏しているではないか。そう、大猿は謙信の脇に控える彌太郎の眼光にすくみ、何もできなかったのである。

 次に上杉謙信と武田信玄との間で行われた、かの有名な川中島の戦いの際のことである。彼は謙信の使者となって信玄の陣営に赴いた。信玄は悪戯心を起こしたのか、それとも彌太郎を慌てさせて恥をかかそうとしたのかは不明だが、陣営に甲斐・信濃一円に知られている「人喰獅子」なる異名をもつ猛犬をわざと放させておいた。
 そうとは知らぬ彌太郎、信玄の前で縁に手を掛け、片膝を付いて使者の向上を述べているとき、その猛犬が彌太郎の脛に飛びかかって噛みついた。しかし彌太郎は顔色一つ変えず使者の口上を述べながらさりげなく縁の下に手を差し入れ、「人喰獅子」の口元を握りしめた。そして信玄の返答を聞き終わると、ぐいと手に力を入れて握りつぶし、立ち上がるやその「人喰獅子」を広場にたたきつけると、さしもの猛犬も目鼻口から血を流して悶え死んでしまった。それを尻目に彌太郎は何喰わぬ顔で退出したという。

弥太郎の墓 【Photo:英岩寺にある弥太郎の墓(飯山市)】
 この他、川中島合戦では武田の名将山県昌景との一対一での一騎討ちの最中、危地に陥った武田義信を先に救いたいという昌景の申し出を、快く受け入れて戦闘を中断したという。冒頭にも書いたが、のち昌景に「小島は花も実もある勇士だ。鬼とは誰が名付けたのだろう」と言わしめたとも伝えられる彌太郎。やはりもう少し歴史に登場していて欲しかった豪傑である。




第2位 真柄直隆(まがら なおたか)

 真柄氏は越前真柄荘(現福井県武生市)を本拠とする国人衆で、古くからの朝倉氏の被官であった。つまり、朝倉氏の譜代家臣である。この稿で紹介する直隆兄弟・父子以外にも、戦国期には他に左馬助景忠・民部丞光家・勘助・主税など一族と思われる名が資料に散見されている。
 さてその直隆、朝倉家に鳴り響いた大力無双の豪傑であることに間違いはないのだが、困ったことにその実像がよくわからない人物なのである。

 と言うのも直隆は一名を直元とも言い、通称十郎左衛門と呼ばれる人物なのだが、彼の弟に直澄という人物がおり、こちらも十郎左衛門を称していて、さらにいずれも豪傑として知られている上に、両名とも姉川の戦いで戦死しているからである。
 それはさておき、直隆はその大力を生かし、戦いの際には越前の刀匠千代鶴の作による五尺二寸もの自慢の大刀「太郎太刀(千代鶴太郎)」を振り回して暴れ回った。ただでさえ怪力で知られる直隆に、このような化け物みたいな刀を振り回された日には、敵はたまったものではない。彼が進み出てくると、きっと敵兵は蜘蛛の子が散るように逃げ回っていたのだろう。

 元亀元(1570)年、彼は息子の隆基とともに近江浅井長政への加勢として出陣した朝倉軍の中にいた。息子の十郎隆基も「次郎太刀(千代鶴次郎)」と呼ばれる四尺三寸の大刀を得物に暴れ回る豪傑であったという。これには異説もあり、そもそも太郎太刀を使っていたのは弟の直澄という説も有力(「戦国人名事典(新人物往来社)」もこの説を採る)なのだが、私の独断で太郎太刀は直隆、次郎太刀は隆基とさせていただき、話を進めることにする。

 この戦いは一般に姉川合戦の名で有名な、織田信長・徳川家康連合軍と浅井長政・朝倉義景連合軍の間で行われた戦いである(浅井方では野村合戦、朝倉方では三田村合戦と呼ぶ)。さて戦いは朝倉勢と徳川勢との間でその火蓋が切られた。
 直隆父子は大太刀を振り回して徳川方に突入、前半は明らかに浅井・朝倉勢が優勢であった。しかし、戦いたけなわとなり、奮戦する父子にもさすがに疲れ出したとき、徳川方の三人の兄弟武者が立ちはだかった。長兄を向坂(勾坂=「さぎさか」または「こうさか」)式部という。向坂兄弟は力を合わせて直隆と戦い、いずれも傷つきながらもついに直隆を討ち取った。父の死を知った子の隆基も気力が尽きたか討ち取られ、ここに父子とも鬼籍に入ってしまうのである。なお、向坂兄弟が討ち取ったのは直隆の弟・直澄で、直隆は徳川家康の武将青木一重に討たれたとするものもある。

 結果的に討たれはしたが、疲れていたにもかかわらず、一人で三人をあしらった膂力はやはり超人的であろう。鉄炮の伝来以来、極めて数少なくなった戦国の華ともいえる豪傑武将の典型が二人、姉川河畔の露と消えた。



第3位 遠藤直経(えんどう なおつね)

 「彼は聞ゆる剛の者にて、力あくまですぐれたり」。遠藤喜右衛門直経を評した竹中久作(半兵衛重治の弟)の言葉である。この言葉通り、直経は近江浅井家にその人ありと怖れられた猛将で、大依(おおより)山砦の守将を務めていた。しかし彼は豪勇一辺倒というタイプではなかったようで、主君長政に二度ほど献策をしている記録があるので、それを紹介する。
 永禄十一(1568)年のこと、当時義昭を擁立した信長は、六角承禎に協力を要請するが断られた。このとき彼は近江にて浅井長政と初の対面をし、六角氏攻撃について長政も協力体制をとることを約束、信長は岐阜への帰路、近江柏原に一泊した。そしてこのとき長政に命じられて信長の接待役に派遣された三人のうちの一人が直経だったのである。

 さて、初めて信長を見た彼は一人早馬を飛ばして小谷城に立ち帰り、長政にこう言った。
「私が信長を見ましたところ、武勇に優れ、謀略に長けた人物と思われます。当家を謀って取りつぶすこと必定です。どうぞ今日ご決断下さい、私が信長を刺し殺しますので、その勢いで美濃に攻め入りなさるべきです」
 しかし長政は、「一度約束したことだ、これを変更することは出来ない」と、彼の献策を聞き入れなかった。そこで彼は再び柏原に戻り、信長を厚くもてなしたという。そしてこのことが、直経の心の中にずっとわだかまりとして残ることになる。

 さて、この間の事情は省くが、元亀元(1570)年のこと、やはり両家は戦闘を交えることになった。長政は朝倉家の援軍とともに織田信長・徳川家康連合軍と近江姉川に対峙、6月28日に決戦となった。このとき直経は陣中で長政にこう献策した。
「信長勢を見ますに、昼間は堅く守り、夜になると横山城を攻めています。つまり、これを逆手にとって信長陣に夜討ちをかけると勝利は疑いございません」
 しかし長政はこの策も採用しなかった。直経は
「このようなチャンスを逃せば、もはや当家の危機は目前に迫っております。もし戦に敗れたなら、信長は私が討ちます」と言い、持ち場に戻ってからも
「戦に敗れたときには、もはや生きては帰るまい。叶わずとも信長にひと太刀つけてやる」
と言ったという。そして彼は程なくその言葉通りの行動をとる。

 戦いの序盤は磯野員昌の活躍で浅井・朝倉勢が優勢であったが、横手に廻った徳川勢の奮戦で形勢は逆転、ついに総崩れとなった。討たれる者数知れず、浅井勢の大敗である。と、この乱軍の中、信長の本陣へ一人の武者が首を刀の先に突き刺し、「殿はいずこにおわす、いざ首実検を」と叫びながらやってきた。
 そう、この武者が直経であった。彼は戦いに疲れ果てながらも織田兵になりすまし、手柄を誇るふりをして信長に近づき、一命を捨てて斬りかかろうとしたのである。しかし控えていた竹中久作に見破られ、組み敷かれて遂に首を取られた。たとえ彼が力を余していたとしても、信長に斬りつけることは難しかったであろう。しかし、一途な彼は自己の命を省みず、果敢にこの挙に出た。

 重臣達が次々と信長に降り、弱体化していった近江浅井家の中にあって、ひときわ光芒を放った忠臣の最期であった。
by Masa