面白エピソード/名言集

戦国時代の個性派武将たちは実に様々なエピソードや名言を残しました。ここではそれらのうちで、特に興味深いもの・面白いものなどを「名将言行録」より拾い出して選び、ご紹介します。

【木村重成編】
その1

 慶長十九(1614)年のいわゆる冬の陣の事である。11月26日、東軍の佐竹義宣の軍勢八千余人が大坂方今福堤の柵へ押しかけてきた。一の城戸の守将矢野和泉守正倫、二の城戸の守将飯田左馬亮家貞は戦死、三の柵の大谷大学も苦戦しているところへ重成が五千余人を率いて駆けつけた。

 しかし銃弾が雨霰と飛び交っているので、木村半四郎という者が一枚の楯を持ってきて「これをお持ち下さい」と言ったところ、重成はその楯を地面に置き、
「たとえ矢玉は遁れようとも、運命からは遁れるのは難しい」
と言ってますます進み、遂に佐竹勢を追い払って柵を固め直した。
 このとき重成の隊長大井何右衛門という者の姿が見えず、重成は大いに驚いて、
「私が預かっている士を捨て殺しにしてしまっては、今後どうやって諸士の下知が出来るだろうか。何としても探してこよう」
とただ一人木戸を開いて散乱する死体の中を、大井何右衛門はいないか、木村長門が迎えに来たぞ、と大声で呼ばわりながらその姿を探し求めた。
 このとき大井はまだ死んではいなかった。彼を見つけた重成は喜んで馬から飛び降り、彼を抱きかかえて戻ろうとした。これを見た敵は鉄炮をますます激しく撃ちかけ、しかも堀尾忠晴の陣からは武者が四、五騎追いかけてきた。
大井は「敵は急、私のことは棄てておいて早くお戻り下さい」と言ったが、これを聞いた重成は、

私は貴公のお迎えに来たのだ。敵が出たからと言って貴公を放り棄てて戻るくらいなら、初めから来ないだろう

と槍を取って敵に向かおうとしたところ、ちょうど重成の配下三十余騎が駆けつけたため、彼は部下に命じて大井を抱きかかえて退却させ、自身は殿軍を務めて無事柵内に引き返した。
 これを聞いた敵味方の兵は共に「あっぱれ、彼は智・仁・勇の三徳を兼ね備えているというが、これは嘘ではない」と感嘆したという。


その2

 同年12月13日のこと、東軍が重成の持ち場に鬨(とき)の声を揚げて攻めかかってきた。重成は櫓に登って一見した後、真田幸村に会ってこう言った。
「今、私の持ち場に攻め寄せてきた関東勢の旗の紋は六文銭です。きっと御一家なんでしょう。それについてお尋ねしたいのですが、ことのほか若い武者二騎が真っ先に進んできて弓や鉄炮をものともせず、兜を傾けて柵に取り付いています。どなたの子なんでしょうか、櫓からご覧下さい」
と言ったところ、幸村は、
「ああ、それは見る迄もなくいかにも六文銭の旗は兄伊豆守信之のもので、その若者の一人は河内守といって十八歳、もう一人は外記といい十七歳、二人とも私の甥です。かわいそうですが、彼らを侍分の人に命じて討ち取って下さい。そうすれば若くして木村殿の持ち場で討死にしたとその名が後世に伝わり、われら一族の喜び、これに過ぎるものはありません」
と答えた。それを聞いた重成は、
「いや、そうではありません。一族が引き分かれての戦いにどうして後日お咎めがあるでしょうか。必ず和睦になりますから、めでたくご対面なさって下さい。御心底お察し申します」
と言って士卒に命じて言うには、間違ってもその二騎の若武者を鉄炮で撃ってはいけない、くれぐれも過ちのないように、と彼らを気遣った とのことである。


その3

 翌元和元(1615)年5月初めより重成は食が進まなかった。妻がこれを憂いて
「この度は落城も近いと取り沙汰されていますが、それでお食事が進まないのですか」
と聞いたところ、重成はこう答えた。
いや、そうではない。昔、後三年の役に瓜割四郎という者がいたが、臆病で朝の食事が喉を通らず、敵陣で首を矢で射切られたところ、傷口から食事が出てきて恥をさらしたという。私も敵に首を取られるであろうから、見苦しくないように心掛けて食事を慎んでいるのだ

 妻はこれを聞いて欣然として下がり、心事を一書に認めて寝室に入り自害したという。妻は時に十八歳、真野豊後守頼包の娘であった。


その4

 重成は風邪に冒され長髪でいたが、5月5日に入浴し、髪を洗い香を焚きこめて江口の曲舞「紅花の春の朝」を静かに謡い、余念なく小鼓を打ち、ついに翌6日に井伊直孝と戦い討死した。

通称木村公園にある重成の墓(八尾市) 【Photo : 通称木村公園にある重成の墓(八尾市)】

 家康が彼の首実験をしたところ、髪に焚きこんだ香の薫りが漂ったため、非常に感心して
「今は5月の初めというのに、首にいささかの臭気もなく、香を焚きこめたのは勇士のよき嗜みである、皆もここに来てその薫りを嗅いでみよ。また兜の緒の端を切り落としてあるのは討死にを覚悟した証拠、素晴らしい勇将である」
と褒めたという。ある人が、これほど嗜みがあるのに月代が伸びているのは何故だろうと囁いたところ、家康はこれを聞きつけ、
「このように自分の最期を磨く木村である、月代が伸びているのには子細があろう。だいたい月代の剃りたては兜つきが悪いもので、たぶんそのような理由なのだろう。稀世の勇将の討死に際し、そのような些細なことを咎めだてするな」
とたしなめたという。

 ※月代(さかやき)=額から頭頂までの髪を剃り落とした部分。
 ※兜つきが悪い=兜をかぶったときに不安定、の意。