戦国を彩った女性たち


喰うか喰われるか。少しでも油断しようものならあっという間に攻めつぶされた時代を生きた女性たちには、個性的な人間が多く存在しました。これはその時代に光彩を放った女性たちを、作者の独断と偏見で紹介するページです。



朝日姫(あさひひめ)    1543〜1590

秀吉の異父妹で、秀長の実妹。旭姫とも書く。初め佐治日向守(副田甚兵衛とも)の妻であったが、天正十四年に秀吉から離縁させられて徳川家康の正室として嫁ぎ、駿府(駿河)御前と呼ばれた。天正十六年七月に大政所の病気見舞いに上洛した際に病を得てそのまま京都にとどまり、同十八年正月に聚楽第で没した。

阿茶局(あちゃのつぼね)  1555〜1637

雲光院。武田家の臣飯田筑後直政の娘で徳川家康の側室。初め神尾忠重に嫁ぎ一男をもうけるが、夫の死後家康に召される。大坂の陣の際には和議の使者として活躍、秀忠の娘東福門院和子入内の時には母代わりを務めた。後に後水尾天皇より従一位を賜った。

綾姫(あやひめ)        ? 〜1609

仙桃院。上杉謙信の姉で、景勝の母。越後坂戸城主長尾政景の妻となり二男二女をもうける。長男義景は十歳で早世、二男が景勝(顕景)。長女は上杉景虎、二女は上条政繁に嫁いだ。景勝の会津移封後に米沢城二の丸で病歿。

生駒の方(いこまのかた)    ? 〜1566

尾張の土豪生駒氏三代家宗の娘で、名は吉乃。幼名をお類という。織田信長の側室となり嫡男信忠・次男信雄(本来は三男信孝の方が少し早生だが、母の身分が低かったため三男にされたという)・徳姫の母となった。信長が最も愛したと伝えられ実質的には正室とも言えたが、永禄九年五月十三日、まだ三十歳ほどの若さで病没した。

出雲の阿国(いずものおくに) 生没年不詳

元は出雲大社の巫女と言われ、歌舞伎の祖。もともと京四条河原で始めた彼女演ずる「かぶき踊り」は後に全国に知られるようになり、結城秀康からは「天下一の女」と言われた。

伊勢姫(いせひめ)   生没年不詳

上州平井城主・千葉釆女の娘で、上杉謙信との関係が取り沙汰されている。謙信の上野滞在中にとも、人質で送られてきたときに見初めたともいうが真相は不明。一説では柿崎景家が仲を裂いたため青竜寺に出家して程なく歿したという。もし事実なら景家誅殺の裏にこの件が影響したかも。

お市の方(おいちのかた)  1547〜1583

織田信長の妹で絶世の美女と伝えられる。初め浅井長政に嫁ぎ一男三女をもうけるが、浅井氏が信長に滅ぼされると柴田勝家の妻となった。天正十一年、勝家は羽柴秀吉と対立し、賤ヶ岳の戦いで大敗。越前北ノ庄城へ退却した夫勝家と共に、三人の娘を城から落とした後に自害した。

お江与の方(おえよのかた) 1573〜1626

後の崇源院。小督(おごう)の方、督姫とも。浅井長政とお市の方の間の末娘で、淀殿(茶々)や常高院の妹。徳川秀忠の正室となり、家光・忠長・(東福門院)和子を生んだ。

小野お通(おののおつう)  生没年不詳

美濃の生まれで九条稙家に和歌を学んだと伝えられる才女。北政所の側近侍女としても知られ、後に家康に仕えたともいうが不明な点が多い。松代藩主真田信之と親しかったと言われ、彼女の娘・図子(お伏とも)も「お通」を名乗り、信之の子信政の側室となり長男勘解由信就を生んでいる。

小見の方(おみのかた)  1513〜1551

斎藤道三の妻。美濃恵那郡明智城主・明智駿河守光継の娘で、光秀の伯母とも伝えられる。信長の正室・濃姫と次男孫四郎の母として知られるが、若くして病没した。

蔭山殿(かげやまどの)   1580〜1653

後の養珠院。父は正木邦時、祖父は北条氏堯。徳川家康晩年の側室で、蔭山長門守氏広の養女だったことからこの名で知られる。家康との間に紀伊頼宣・水戸頼房を生んだ。

亀姫(かめひめ)      1560〜1625

後の盛徳院。家康の長女で母は築山殿。奥平信昌の妻となり、加納御前とも呼ばれた。本多正信・正純親子を憎み、後に宇都宮釣天井事件を引き起こしたと言われる。

寒松院(かんしょういん)   ? 〜1613

真田昌幸の室でのち山手(山之手)殿と呼ばれた。出自は宇田頼忠または頼次の娘・菊亭晴季の娘・正親町実彦の娘で菊亭氏養女・正親町氏の娘で武田信玄養女・遠山右馬亮の娘などと諸説あり不明。信幸(のち信之)・信繁(幸村)の母。昌幸の九度山配流の際、落飾して寒松院と号した。慶長十八年六月三日没。

北政所(きたのまんどころ)  1549〜1624

豊臣秀吉の糟糠の妻。杉原定利の娘で名はおね、寧々(ねね)とも。子が無かったため次第に側室淀殿に主導権を握られる。秀吉死後は家康寄りの立場をとり、非常に信頼されたという。後の高台院。

見性院(けんしょういん)  1557〜1619

山内一豊の妻で名は千代。「まつ」とする説もあるが不明。美濃八幡城主遠藤盛数の娘で慶隆の妹。身分が低かった頃の夫に嫁入り時の蓄えをはたいて名馬を購い、これがきっかけで馬揃えの際に織田信長に見いだされた一豊が出世を重ね、後に土佐一国の主にまでなったというエピソードで有名。

豪姫(ごうひめ)       1574〜1634

樹正院。前田利家の娘で秀吉の養女となり、後に宇喜多中納言秀家の妻となる。関ヶ原の戦いで夫秀家が八丈島へ流されたのを機に受洗し、前田家へ戻った。

小松姫(こまつひめ)   1573〜1620

本多忠勝の娘で真田信之の室。天正十四年、徳川家康の養女として真田信之に嫁ぐ。賢夫人として知られ、関ヶ原合戦の際に敵となった義父昌幸が孫の顔を見たいと上田城に立ち寄るが、これを峻拒した話は有名。元和六年二月二十四日、草津温泉へ療養に行く途中に武蔵鴻巣で没した。

三条夫人(さんじょうふじん) 1531〜1570

三条公頼(きんより)の娘で武田信玄の正室。義信はじめ五人の子生むが、皆不運に見舞われ次々と早世し、諏訪御寮人の子勝頼が成長するにつれ失意のうちに没した。

寿桂尼(じゅけいに)    ? 〜1568

従一位権大納言・中御門宣胤の娘で今川氏親の妻。今川氏輝・義元の母。大永六年に氏親が没すと落飾して寿桂尼と称した。まだ若い氏輝の後見を務めるが、天文五年に氏輝が没すと太原雪斎らとともに梅岳承芳(義元)の擁立に尽力した。永禄十一年三月十四日没。

常高院(じょうこういん)    ? 〜1633

名は初。浅井長政の次女で淀殿の妹、崇源院の姉。京極高次の妻となる。大坂冬の陣の際には家康の使者として淀殿を説得、和平を成立させたが夏の陣では逆に淀殿から依頼され家康へ豊臣家存続を願い出たが聞き入れられなかった。

諏訪御前(すわごぜん)    ? 〜1554?

諏訪御寮人。諏訪上原城主諏訪頼重の娘で武田信玄の側室、勝頼の母。名は湖衣姫、絶世の美女だったという。天文十一(1542)年、父頼重が武田信玄に滅ぼされた後に信玄の側室となり、同十五年に勝頼をもうけた。没年は天文二十三(1554)年とも弘治元(1555)年とも。

千姫(せんひめ)      1597〜1666

天樹院。徳川秀忠の娘で母は崇源院。七歳で豊臣秀頼の妻となる。夏の陣で大坂落城時に救出され本多忠刻に再嫁、姫路に移り住み十万石の化粧料を与えられる。

築山殿(つきやまどの)    1542〜1579

瀬名姫。今川家の重臣関口親永の娘で、徳川家康の正室。唐人減敬という医者を通じ武田家に内通した罪で長男信康と共に信長から咎めを受け、家康の手により遠江富塚の地で殺害された。

おつやの方(おつやのかた)    ? 〜1575

織田信長の叔母で旧岩村城主遠山景任夫人だったが、武田方の秋山伯耆守信友に攻められて落城し、信友の夫人となる。後に信友が信長に降伏開城したとき信長の激怒に触れて岐阜で処刑された。

伝通院(でんづういん)   1528〜1602

於大の方。三河刈屋(谷)城主水野忠政の娘で徳川家康の母。天文十年に松平広忠に嫁ぐが、同十三年に兄水野信元が松平氏と敵対したため離縁。のち久松俊勝に再縁、慶長七年に京都伏見で病没した。

徳姫(とくひめ)       1559〜1636

織田信長の娘で母は生駒の方。徳川家康の長男信康に嫁ぐが、夫と姑が武田家に内通との報を信長に送って知らせ、これがもとで両者とも失った。後に兄信雄から秀吉の人質に出され、最終的には京で没した。

虎御前(とらごぜん)     ? 〜1568

越後栖吉城主長尾氏の娘で守護代長尾為景の妻。青岩(厳)院とも。長尾晴景・仙桃院・上杉謙信の母。謙信が仏門に入ったのはこの虎御前の影響が大きいとされる。為景没後の消息は不明だが、春日山城で暮らしたものと思われる。

おなべの方(おなべのかた)  ? 〜1612

織田信長の側室。もとは蒲生定秀に攻められて自害した近江八尾山城主・小倉実澄の妻。信長を頼って岐阜にやってきたところ、信長の手がついたという。

禰津夫人(ねづふじん)  生没年不詳

東信濃小県(ちいさがた)の土豪・禰津元直の三女で武田信玄の側室。1542年、信玄が禰津氏を傘下にしたときに屋敷へ入れる。利発で闊達、男勝りな性格といわれた七男信清の母。

濃姫(のうひめ)    ? 〜1582

斎藤道三の娘で織田信長の正妻。本名は帰蝶(きちょう)。非常な才女といわれたが、子に恵まれなかった。本能寺で信長と共に死ぬが、病を得て早世したという説もある。

冬姫(ふゆひめ)   1561〜1641

織田信長の二女で蒲生氏郷の正妻。蒲生秀行の母で後の相応院。非常な美女だったと伝えられ、氏郷没後に秀吉から召し出されるがこれを拒否、その使者の前で髪を下ろして出家したと伝えられるエピソードを持つ。

保春院(ほしゅんいん)  1548〜1623

最上義守の娘で、出羽の謀将最上義光の妹。伊達政宗の母。義光の力を借り、次男の小次郎を立てようとして何度か政宗暗殺を企てるがことごとく失敗、逆に政宗に小次郎を殺され山形の最上家に身を寄せた。

細川ガラシャ(ほそかわがらしゃ) 1563〜1600

明智光秀の娘で細川忠興の妻。名は玉。山崎合戦の後、丹後味土野(三戸野)に幽閉された。関ヶ原の際には大阪の屋敷で留守居中、石田三成からの人質要請を拒み小戦闘となるが、キリスト教が自害を禁じていたことから家臣(小笠原少斎)に刺殺させた。

お松の方(おまつのかた)   1547〜1617

前田利家の正室で後の芳春院。非常に聡明な女性で秀吉の正室高台院と仲が良く、多面にわたって利家を助けた。また関ヶ原の際には自ら江戸に向かって家康の人質となり前田家を救った。

お万の方(おまんのかた)  ? 〜1619

お督の局、後に長勝院。伊勢の神職あがりの大坂の町医者・村田意竹(おきたけ)の娘で(異説あり)、はじめ徳川家康正室・築山殿の侍女であったが、やがて徳川家康の最初の側室になったと伝えられる。於義丸(後の結城秀康)を生んだ。

妙玖(みょうきゅう)  1499〜1545

安芸小倉山城主・吉川国経の娘で毛利元就の糟糠の妻。隆元・元春・隆景・五龍局の母。生前の名は不明で妙玖は法名。四十七歳で世を去ったが、元就は後の手紙にも「妙玖が生きていたら」と記しており、典型的な良妻賢母型の女性ではなかったかと思われる。

淀殿(よどどの)        1567〜1615

浅井長政の娘で豊臣秀吉の側室。淀の方、茶々姫の名で知られる。秀吉没後の実権を握るが、その性格から心ある人物は次第に離れていった。家康に対抗しようとしたが所詮歯が立たず、大坂夏の陣にて秀頼と共に自害。