戦国を生きた男たち
《 忍者/異能者編 》

戦国時代を生きた男たちの中には、現在では想像もできないような特殊技術を持った人々も多く存在しました。ここでその技能を駆使して諜報活動に、また敵の攪乱や煽動、暗殺等に暗躍した忍者や異能者たちを、作者の独断と偏見で紹介します。多少「忍者」の解釈を拡げてありますが、ご了承下さい。


ノミネートされた忍者/異能者たち(五十音順)
☆印は武将・大名編データと重複
→[何でもランキング]に関連ページがあります。

伊賀崎道順(いがのさき どうじゅん) 生没年不詳

通称「楯岡(たておか)ノ道順」。伊賀国楯岡郷の中忍クラスの下請け忍者。六角氏の内訌時に義賢に加勢、忍者群を率いて百々某の籠もる佐和山城を落としたという。また鉄砲の名手と伝えられ、織田信長を二度狙撃(いずれも失敗)したとされる記録が残っている。

石川五右衛門(いしかわ ごえもん)  ? 〜1594

戦国期の畿内を中心に荒らし回ったとされる盗賊団の頭領。秀吉の命により京都所司代前田玄以の手に一族もろとも捕らえられ、京・三条河原で釜ゆでの刑に処された。もとは百地丹波門下の伊賀忍者との説も。京都の大雲院に墓がある。

出浦盛清(いでうら もりきよ) 1546〜1623

対馬守。横谷左近幸重とともに真田昌幸・信之に仕えた忍者集団の頭領の双璧として並び称される。信濃埴科郡坂城町出浦の出身で、最初武田信玄、次いで森長可を経て昌幸に仕えたとされる。吾妻奉行を拝命し、配下の吾妻忍びたちを統率して活躍した。

鵜飼孫六(うかい まごろく)  生没年不詳

甲賀忍者。甲賀五十三家鵜飼源八郎の一族か。松平元康(徳川家康)が今川方鵜殿長持の拠る三河上郷城攻めの際、戸田三郎四郎の要請に応じ甲賀忍者二百名を統率して城に忍び込み、城内を混乱させ落城させたという記録がある。

円珍(えんちん)  生没年不詳

京を追われて近江に逃れていた足利義澄の依頼で、時の将軍義稙を襲撃したとされる。時宗に僧籍を置き、「夜討ち上手」との異名を持つ。ただ、義稙は数カ所の傷を負ったものの、いずれも浅手で暗殺は未遂に終わった。彼のその後の消息は不明。

果心(かしん)  生没年不詳

通称果心居士。初め大和興福寺に僧籍を置いた異能の修験者。外法による幻術に長じたと伝えられ、そのため興福寺を破門される。天正十二年六月に秀吉に殺されたとされるが、詳細は不明。

加藤段蔵(かとう だんぞう)  生没年不詳

通称「飛び(鳶)加藤」。戦国期で最も異能の忍者のうちの一人として知られる。上杉謙信に仕えるべく越後へ行くが、そのあまりの異能ぶりに追い出され、続いて武田信玄のもとへ行くがやはり魑魅魍魎の類と見なされ、土屋昌次に斬られたとも、馬場信房の屋敷にて射殺されたともいう。

唐沢玄蕃(からさわ げんば)  生没年不詳

もとは信濃沢渡の地侍で、真田昌幸・信之に仕えた伊那忍者。天正初期に割田新兵衛とともに信濃尻高城に忍び込み、焼き討ちに成功。長篠合戦にもその名が見えるが、彼は危地をくぐり抜け無事帰国している。

神戸ノ小南(かんべの こなん) 生没年不詳

戦国期の伊賀国神戸郷の下忍。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられたという。

城戸弥左衛門(きど やざえもん) 生没年不詳

通称「音羽(おとわ)ノ城戸」。戦国期の伊賀国音羽郷の中忍クラスの下請け忍者。とくにその高度な鉄砲術は忍者たちの間でも怖れられたという。信長を大鉄炮で狙撃したというエピソードを持つ。

高山ノ太郎次郎(こうやまの たろうじろう) 生没年不詳

本名は不明。姓は「甲山」とも書く。戦国期の伊賀国上野郷の下忍。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられたという。彼の屋敷跡が現在、上野公園内の「伊賀忍者屋敷」として現存している。

篠山理兵衛(ささやま りへえ)  ? 〜1600

名は景春。甲賀五十三家の一つ大原氏の一族で、篠山監物の弟。徳川家康が上杉討伐に向けての帰国時に、豊臣家五奉行の長束正家が居城の近江水口(岡山)城下で家康暗殺を企てたが、いち早くこれを察知し家康は難を逃れた。関ヶ原の際に伏見城に籠もり、一族とともに討死した。

佐田彦四郎(さだ ひこしろう) 生没年不詳

毛利元就家臣・杉原播磨守盛重の配下に属する忍者。三人兄弟の長兄(弟は甚五郎・小鼠)で、その高度な技術に「狐狸の変化」と怖れられた。秀吉との上月城の戦いにも配下の忍者を率いて参戦したと伝えられる。

下柘植ノ木猿・小猿(しもつげの きざる・こざる) 生没年不詳

戦国期の伊賀国下柘植郷の下忍親子。ともに猿を使った特異な技術は忍者たちの間でも高く評価されたという。なお、木猿の本名が上月佐助であることから、猿飛佐助は彼のことを指すとの説がある。

新堂ノ小太郎(しんどうの こたろう) 生没年不詳

名は「金藤」ともいう。戦国期の伊賀国新堂郷の下忍。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられたという。

杉谷善住坊(すぎたに ぜんじゅぼう)  ? 〜1573

甲賀五十三家の一つ・杉谷家の当主与藤次の子で、「飛ぶ鳥も射落とす」と言われた鉄砲の名人。1570年に鈴鹿山系千草山中の椋木峠にて織田信長を狙撃したことで有名。しかし軽傷を負わせただけで失敗、逃走したが3年後に磯野員昌の手に捕らえられ、土中に埋められ鋸引きの刑に処された。

高羽左兵衛(たかば さへえ)  生没年不詳

通称「上野のヒダリ」。伊賀国上野郷の下忍。特に変装術に優れていたと言われ、忍者たちの間でもその存在が怖れられたという。

柘植清広(つげ きよひろ) 1542〜1631

通称三之丞。「威風流(柘植流)」と称される高度な鉄砲術を持つ伊賀の下忍。一説によると徳川家康の「伊賀越え(甲賀の資料では甲賀越えとある)」を先導したのは服部半蔵ではなく、この柘植三之丞清広だともいう。

奈佐日本之助(なさ やまとのすけ)  ? 〜1581

山陰地方の海賊。山中鹿介幸盛とともに尼子家再興に協力して毛利軍と戦うが、結局は吉川元春に降伏。後秀吉に海賊行為を咎められて捕らえられ、丸山城にて自刃。

禰津信政(ねづ のぶまさ)  生没年不詳

通称神平(しんぺい)。真田幸隆・昌幸に仕えた忍者集団の頭領。元は鷹匠の家だった禰津家は甲陽流忍術の家元として知られ、後に女忍者集団「禰津流くの一」を輩出する。

野村ノ大炊孫太夫(のむらの おおいまごだゆう) 生没年不詳

戦国期の伊賀国野村郷の下忍。その忍びの技術は各国の忍者たちの間でも高く評価され、怖れられたという。

服部半蔵(はっとり はんぞう)  1542〜1596 ☆

徳川十六将の一人。本名は石見守正成で、通称「大半蔵」。伊賀の上忍で本能寺の変の際、家康の「伊賀越え」を一族を挙げて助けた功により家康の忍び頭となる。配下に多数の忍び衆を抱えて諜報活動で活躍するが、半蔵自身の実像は忍者というより槍術に優れた家康麾下の有能な戦闘指揮官であった。現在の東京「半蔵門」は、ここに彼の屋敷があったことからその名がある。

服部保長(はっとり やすなが)  生没年不詳

半蔵正成の父。伊賀国服部郷に居を構える服部家本宗の当主で、上忍三家のうち最も勢力があった。元は「千賀地(ちがち)」姓で初め足利義晴に仕え、致仕した際に服部姓にしたと伝えられる。後に松平清康・広忠・家康三代に仕えたが、詳細は不明。

伴 長信(ばん ながのぶ)  生没年不詳

通称太郎左衛門。姓は「とも」と読むこともある。甲賀五十三家中もっとも勢力があった上忍のひとつ伴家の当主で、六角義賢や織田信長の下で甲賀忍者たちを指揮した。本能寺の変の際に、信長の側にあって最後まで明智軍をくい止めて討死したと伝えられる。

風魔小太郎(ふうま こたろう) 生没年不詳

箱根山を根城に活動した、相州乱波と呼ばれる忍者集団の頭領。風魔の出自は菅原道真の血を引く田代冠者信綱で、その一党は源義経を助けたとも伝えられる。火術に長じ、北条家の諜報活動を担当したとされ、北条家滅亡後は江戸に入り盗賊となって荒らし回るが、捕らえられて火あぶりに処せられたと伝えられる。

藤林長門守(ふじばやし ながとのかみ) 生没年不詳

伊賀の上忍三家のひとつで、同国北部・甲賀に境を接する湯舟郷に居を構える藤林家の当主。名は保豊といい、今川義元に雇われていた際に山本勘助に忍術を教えたという記録がある(「藤林家由緒書」)。もとは服部家の支流だったが、次第に独立していったという一方、百地丹波と同一人物とする説もある。

望月出雲守(もちづき いずものかみ)  生没年不詳

甲賀五十三家中もっとも勢力があった上忍のうちの一つ、近江国甲賀郡竜法師郷に居を構える望月家の当主。出自は信濃国の名族・滋野三家のひとつである望月氏の流れといわれ、煙術を駆使した「甲賀三郎」の名で有名。この望月氏の屋敷跡が現在「甲賀流忍術屋敷」として残っている。

百地丹波守(ももち たんばのかみ)  生没年不詳 ☆

名は正西(まさあき)とするものもあるが、世襲による呼称と思われ、人物の特定はできない。伊賀竜口と喰代(ほおじろ)にある伊賀上忍三家の一つ百地家の当主で、服部保長が京へ去った後に伊賀国内での実権を握る。天正伊賀の乱の際には軍師的存在として国人衆を指揮し、信長軍に抵抗した。一説に大盗賊石川五右衛門は忍術の達人百地三太夫の弟子とされるが、三太夫がこの百地丹波である事を示す資料はない。

山田ノ八右衛門(やまだの はちえもん) 生没年不詳

戦国期の伊賀国山田郷のいわゆる下忍。仲間内からは「ハッチョモン」と呼ばれ、普段は伊賀一の宮敢国神社の世話人であったと伝えられる。双忍術など高度な変装術を使うことで知られたという。

山中俊房(やまなか としふさ)  1559〜 ?

通称大和守。甲賀五十三家中もっとも勢力があった上忍のうちの一つ山中家の当主。最初は六角義賢、六角氏滅亡後は織田信長に属して諜報活動に従事したとされる。

横谷幸重(よこたに ゆきしげ)  生没年不詳

通称左近。もとは上田と沼田の中間地点にある要害・雁ヶ沢城を本拠とする土豪で、真田昌幸・信之二代に仕えた。出浦対馬とともに真田忍者集団の頭領の双璧として並び称される。昌幸の参加したほぼ全ての合戦にその名が見える。

鷲塚佐太夫(わしづか さだゆう)  生没年不詳

真田昌幸配下のいわゆる「真田忍者」。一説によると、この佐太夫の子が猿飛佐助だというが、詳しい事績は不明。

割田重勝(わりた しげかつ)    ? 〜1618

下総守。真田昌幸家臣で「吾妻七騎」の一人にも数えられ、忍びの達人と言われた。北条氏が昌幸の沼田城に攻め寄せたとき、敵将松田憲秀から名馬を奪った話などが残されている。大坂の役後盗みを働いたため真田信之家臣出浦盛清の手により討たれたという。