母里太兵衛と酒

黒田長政の名物家臣として知られる母里(もり)太兵衛には、ご存じ「黒田節」に謡われたエピソードがあります。さて、その内容はどのようなものだったのでしょう。


母里太兵衛の墓  母里太兵衛の本名は但馬守友信、播磨姫路近郊の妻鹿(めが)出身で黒田孝高(官兵衛)・長政親子に仕えた人物である。「黒田二十四騎」中の「黒田八虎」の一人に数えられた勇将で槍術にすぐれ、栗山備後守利安とともに黒田長政の先手左右の大将として、朝鮮の役等数多くの合戦で活躍した。またその性格は豪放で、主君に向かって数々の直言・強諫を残している豪傑型の武将である。(画像は福岡県嘉穂町の麟翁寺にある太兵衛の墓)

 あるとき黒田長政が、これも豪傑酒豪として知られている福島正則(福島正則と酒 参照)の元へ使者を立てることになったのだが、その使者に母里太兵衛を選んだ。ただ、両人が顔を合わせると必ず酒の話題が出るであろうし、もしそのおかげで役目をしくじってはまずいと思った長政は、太兵衛を呼び厳しく禁酒を言い渡した上で使者として遣わした。

 さて、先方の福島正則はといえば、案の定、朝から酒宴を張っていたらしい。そこへ黒田家から母里太兵衛到着と聞くと、喜んでその席へ呼び、「用件など後回しでよい、ささ、まず一杯」と酒を大杯になみなみと注いですすめる。
 太兵衛これにはグラグラっときたが、主君からの厳命のある以上飲むわけにはいかない。「それがし酒は不調法でござる」と、心にもない言葉で断る。しかし正則も正則、酒が入っていたせいもあり、執拗にすすめる。

「どうじゃ、そちがこの大杯を見事に飲み干したあかつきには、望みのものを何なりと取らせようぞ」
「は、ありがたきお言葉なれど、主命もありますれば・・・」

 次第に会話はエスカレートする。

「飲めぬと申すなら口を割っても飲ませようぞ」
「たとえ八つ裂きにされようとも、飲め申せませぬ」

 あげくの果てに、正則は

「名に負う母里でさえ一杯の酒に後ろを見せるとは、黒田家は腰抜け侍ばかり、豆腐同然、骨も筋もない弱虫藩じゃの」

 自分のことならともかく、主家をここまで言われては武士の面目が立たない。ついに太兵衛は承知する。

「そこまで仰せられては・・・。ではおそれながら、頂戴いたします。されど、先ほどの仰せにお間違いはござりますまいな」

 太兵衛はきっちり念を押してから、直径一尺、朱塗りの大杯になみなみと注がれた酒を立て続けに三杯飲み干し、うろたえる正則から約束通り秘蔵の名槍・日本号をもらった。

 この日本号という槍は、もとは正親町天皇の所有されていたもので、信長、秀吉の手を経たのち正則が所有していた、正則自慢の天下の名槍である。

 太兵衛はこの槍をかつぎ、黒田藩歌の「筑前今様」を吟じながらゆうゆうと帰っていったという。これが後に替え歌となり、現在謡われている「黒田節」に至る。

by Masa