上杉景虎と御館の乱

さて、上杉家にもう一人の養子・上杉景虎が小田原北条家からやってきます。そして突然の謙信の死。景勝は素早く行動に出ます。


もう一人の養子・上杉景虎

 その人物の名を上杉景虎という。景虎は相模の名将北条氏康の子・通称三郎で、世継ぎを亡くした北条幻庵(長綱)の養子となるところだったが、永禄十二(1569)年閏五月三日に謙信と氏康の間でいわゆる「越相同盟」が結ばれ、翌元亀元(1570)年北条家より謙信の養子として上杉家にやってきた。ちなみに上杉家からは柿崎晴家が小田原へ赴いている。

 なお、この景虎は近年まで北条氏康の七男(八男とも)氏秀と見られていたが、どうも景虎と氏秀は別人であるらしい。氏秀は北条綱成の二男で江戸城将などを務めた孫二郎康元と同一人物である可能性が高いとのことである。事の真偽はともかく、この後彼もまた戦国期特有の外交政策の犠牲者と言っても良い、気の毒な生涯を送ることになる。
 また、景虎は謙信の前名を授けられただけでなく、妻として長尾政景の娘(景勝の姉または妹の二説ある)を娶っている。つまり景勝と兄弟になったわけである。景勝という「身内の養子」が先にいながら、謙信がどういう意図を持って彼に景虎の名を与えたかは判らない(この時点で景勝はまだ喜平次顕景を名乗っていた)が、景勝を本家「長尾上杉家」の主とし、景虎には「関東管領家」の惣領として関東方面を治めさせる腹づもりだったのかもしれない。実は謙信にはもう一人上条政繁(畠山義春)という養子がいて、少なからず景勝を助けているのだが、関ヶ原の後に徳川家に属して本姓に復姓しており、ここでは触れない。

 家臣達の中には、内心この養子縁組に反対する者も数多くいたであろうが、しばらくは表立っては何事も起こらなかった。この間天正三年に喜平次は景勝と改名し弾正少弼に叙任され、謙信は能登へ侵攻、手取川の戦いでは初対戦の織田信長軍を木っ端微塵に打ち破っている。しかし天正六(1578)年、青天の霹靂とも言える重大事が起こった。


謙信の死と御館の乱

 この年の三月九日、謙信が春日山城内の厠で突然倒れ、意識の回復を見ぬまま四日後に歿したのである。遺言も何もなかった。このため家中が景勝方・景虎方の二派に分かれ、いわゆる跡目争い「御館の乱」が起こった。

 景勝の行動は早かった。三月十五日には「謙信公の遺言」と称して春日山城の本丸・金蔵・兵器蔵を占拠し、同二十四日には自身が謙信の後継者であることを宣言した。そして両勢は五月五日に大場で初めて交戦、景虎は妻子を連れて春日山城を脱出し、天文二十一年以来謙信を頼って越後へ来ていた前関東管領山内上杉憲政の居館・御館に立て籠もったのである。
 景虎の兄北条氏政は武田勝頼に景虎救援を依頼、勝頼は受諾し五月二十九日には兵を国境付近に進めた。しかし景勝は謙信以来の莫大な金銀にものを言わせ、一部領土の割譲・黄金一万両・勝頼の妹を娶る事などの条件をもちかけて和睦に成功、勝頼は兵を退いた。一説に勝頼の重臣長坂長閑・跡部大炊助に二千両ずつの賄賂を渡して話を進めたとも言う。
 勝頼の撤兵により北条方では九月はじめに氏照・氏邦が出陣、越後に侵入し樺沢城を本拠として坂戸城など近隣諸城を攻撃した。激しい戦闘がようやく落ち着いたかと思われた翌天正七年二月一日、雪の降りしきる中を景勝は御館へ総攻撃をかけた。景虎勢の中では一騎当千の豪傑で「鬼弥五郎」の異称を持つ北条景広(長國)が、これまでの戦いでも奮戦してきたが、この日景勝方荻田主馬(孫十郎)の槍に討ち取られた。多少持ちこたえはしたものの、雪で小田原からの援軍もままならず、ついに三月十七日に御館は落ちた。なお、この日景虎に加担していた上杉憲政は、景虎の長男で九歳の道満丸を連れて和議仲裁のため春日山城へと赴くが、途中の四ツ屋峠において景勝方に斬殺されている。かろうじて景虎は落城寸前に鮫ヶ尾城へと脱出したが、頼ったはずの城将堀江宗親が景勝方に寝返り、進退窮まった景虎は同月二十四日に自刃した。享年二十六歳という若さであった。

 この後、栃尾城の本庄秀綱・三条城の神余親綱・北条城の北条輔広らが抵抗はしたが、順次各個撃破され、天正九年二月に越後を二分した動乱は終息した。


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