秀吉への臣従

ついに景勝は秀吉に臣従、上洛します。秀吉はこれを大歓迎し、やがて帰国した景勝は新発田討伐・佐渡平定を成し遂げ、越後を統一します。


秀吉への臣従

 天正十四(1586)年五月、景勝は四千の兵を率いて上洛の途につき、二十八日に金沢に立ち寄って後、六月七日に入洛した。そして十四日に秀吉に謁したのち、秀吉の奏聞によって従四位下左近衛権少将に叙任された。そして二十三日には秀吉から佐渡の仕置きを命じられて帰国、九月になると、まずは新発田重家(治長)討伐に向け動き出した。しかし新発田勢の抵抗は頑強で、加えて重家も老巧の将、戦いは膠着状態となった。そしてこの年の終わりの十二月十九日には秀吉は太政大臣となり、新姓豊臣氏を興す。

 明けて天正十五(1587)年七月、景勝は総力を挙げて再び新発田重家討伐に向かった。八月には会津蘆名氏からの援軍が新発田へ向かったが、景勝は藤田信吉らを向かわせてこれを撃破、首級二百・生け捕り五十九人という戦果を得たのだが、少し面白い話が残っている。
 生け捕った者の中に侍分の者が三人いた。事情を問いただしたところ、「新発田城内では周囲の刈田・放火のため兵糧が尽き、滅亡寸前である。重家から矢玉兵糧の補給と鉄炮五十挺、および数百騎の加勢を申し入れてきたため、会津から合力に来た。我々は兵糧を背負ってやって来た者である」とのことだった。これを聞いた景勝は、
「この者どもを始末して兵糧を奪うのは簡単だが、そういう小手先のことをするのは大人げない。命を助け、兵糧を持たせて城内へ入れてやれ。城を攻め落とすのに、相手の強いところを我が矛先にかけて踏みつぶしてこそ、気持ちが良いではないか」
 と言うと、三人を助命した上に兵糧を持たせて新発田城内へと向かわせた。しかし、城内ではこれを逆に怪しんで景勝方の計略と思いこみ、彼らを捕らえて首を刎ね、梟首したという。これを聞いた会津方や殺された者の一族縁者は皆重家を憎み、景勝を慕ったという。

 そして十月二十四日に三条道如斎(信宗)の拠る五十公野(いじみの)城を、翌二十五日には遂に新発田城を落とし、城将重家は自刃、ここに七年の長きに渡った「新発田の乱」は終わった。


秀吉の天下統一

 天正十六(1588)年、景勝は再度上洛、この時従三位参議に任ぜられ、秀吉から豊臣および羽柴姓を授けられている。余談であるが、景勝の相棒役として名高い直江兼続も、このとき従四位下山城守に任ぜられており、のちに天下に名を知られた「直江山城」がここに誕生したのである。
 秀吉は前年に島津討伐を終え、あとは小田原北条氏を残すのみとなっていた。景勝はこの年九月に本庄繁長を出羽に向けて最上勢を蹴散らしているが、目立った戦いはなくこの年は暮れる。そして、翌天正十七年六月十二日、景勝は佐渡に渡って本間三河守・羽茂(はもち)高持らを討伐、佐渡を平定した。そして十月には、何としても北条氏征伐の口実が欲しい秀吉にとって、正におあつらえ向きの事件が起こる。
 十月二十三日、北条氏の家臣猪俣邦憲が、約に反して真田領名胡桃城を突然奪ったのである。秀吉はこれに激怒、十二月には景勝をはじめ徳川家康・前田利家らを聚楽第に招いて北条討伐の作戦会議を開いた。

 そして翌天正十八(1590)年三月一日、秀吉は全国の大名を従え、自身は三万余の軍勢を率いて小田原へ進発、総勢二十万を超える軍勢で小田原城を包囲した。景勝も正月下旬に春日山を出陣、前田利家らとともに次々と北条方の支城に攻めかかった。三月十八日に碓氷峠を越えて上野に侵入し安中・国峰・厩橋の各城を落とし、四月二十日には大道寺政繁が拠る松井田城を、さらに武蔵へ侵入し六月十四日には北条氏邦が籠もる鉢形城、同二十五日には八王子城と立て続けに城を抜いた。これらの戦いでは藤田信吉や甘糟清長らが奮戦している。

 北条氏政・氏直父子は七月五日に小田原城を明け渡し、氏政は程なく切腹、氏直は家康の婿ということで一命は助けられ高野山へ送られた。この時点で、事実上秀吉はついに天下統一を果たしたのである。


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