大坂冬の陣

家康に降伏した景勝は、以後は忠実に務めを果たします。そして、大坂冬の陣で再びその武勇を轟かせますが、水原親憲や安田上総介が面白い話を残しています。


大坂冬の陣

 家康は慶長八(1603)年二月十二日に征夷大将軍となって江戸幕府を開き、盤石の支配体制を築いていった。そして慶長十九(1614)年、その矛先が、ついに大坂城の秀頼に向けられた。
 この年の七月、家康は方広寺の鐘銘文中の「国家安康」「君臣豊楽」「子孫殷昌」という文言を意図的に曲解し、「家康の文字を分断し、豊臣を君として栄えようとは何事か」と、大坂方へとんでもない難癖をつける。大坂方はむろん仰天、片桐且元を駿府の家康のもとへ派遣して弁明に務めるが無駄であった。この後の詳しい動向は省くが、十月一日、家康は大坂討伐を決意して諸将に出陣命令を下す。そして豊臣方も兵を募り武器を調達、「戦国最後の合戦」へと場面は動く。
 同年十一月四日、大坂方の薄田兼相が山口弘定と平野へ攻め込み、周辺を焼き払うという行動に出た。既に伏見に来ていた家康は、秀忠の到着を待って大坂へ出陣、ここに世に言う「大坂冬の陣」が始まった。十一月十五日のことであった。

 冬の陣での景勝は、大坂城の北東に位置する鴫野(しぎの)に陣を敷いたのだが、十一月二十六日に大坂方との間で冬の陣最大の戦いとも言える激戦が展開された。景勝は木村重成・後藤又兵衛らに攻められ苦戦している佐竹義宣の救援に向かい、苦労しながらもこれを撃破する。このとき活躍するのが、この稿に度々登場する水原親憲である。
 まず大坂方からは、大野治長らが一万二千の軍勢を率いて鴫野の景勝陣へ攻めかかってきた。景勝陣の兵数は五千、敵は数に物を言わせてじりじり押してくる。景勝の先陣隅田大炊介は奮闘するが次第に押し込まれ、二陣の水原隊近くまで後退する。このとき、水原隊の鉄炮五百挺が一斉に火を噴き、同時に安田上総介らが横合いから攻めかかり大坂方を撃退したのだが、この日の水原親憲の出で立ちは、「自分の具足は非常に古いので、諸将に笑われる」と言って、猿楽の半臂(はんび)を具足の上から羽織るというもので、否応なしに目立っていたという。
 この激戦を遠望していた家康は、少なからずダメージを受けている景勝が勢いに乗じて進撃すると見て、久世三四郎を使者として景勝の元へ走らせ、これ以上無理をせず堀尾吉晴と交代するよう告げさせた。しかし景勝は頑としてこれをはねつけた。
「弓取りの先をあらそふ時、一寸ましといふ事あり。今朝よりはげしく軍して取敷たる所を、人に譲りて退く事や候」(『常山紀談』)
 こう言って動かない景勝の元へ、今度は丹羽長重が様子を見にやってきた。しかし景勝は、紺地に日の丸・毘の文字の旗二本に浅黄の馬印を押し立て、左右に槍を横たえ跪いて戦闘態勢を取る兵三百を従え、彼自身は青竹を手に床几にどっかと腰を下ろして城中をはたと睨み、長重を一顧だにしなかった。そして陣中はしんと静まり返り、兵達は敵よりも景勝を恐れること甚だしく、言葉にも表せないほど武者行儀が良かったという。勇将として知られる長重も、さすがにこの光景には感心し、後に人に語って景勝を褒めたという。


上杉家の硬骨漢

 この冬の陣では徳川方はあまり見るべき所はなかった。城の南では十二月三日〜四日に真田丸で越前松平勢と前田勢が真田幸村にさんざん撃退されている。このため家康は大砲を城中に向け発砲させたところ、一発が天守に命中、侍女数人が即死した。これにパニックとなった淀殿は和睦を急がせ、十二月十九日には一旦和睦が成立する。

 さて、この戦いで上杉方に面白い話が残っているのでご紹介する。まずは水原親憲。後に家康から上杉家の士大将に感状を下したときのことである。
 彼は家康の前で謹んで感状を開封し、読み終えてから元の通りに戻し、傍らの本多正信を見やってこう言ってから静かに退出したという。
「感じ仰候詞、殊更に忝く覚え候。景勝武功を賞させ給ふゆゑに、陪臣までかゝる仰を承る事、謙信弓箭の遺風を天下にあぐる所に候」(『常山紀談』)
 一見すると何でもない言葉と思われるだろうが、これには裏がある。そもそも下賜された感状をその場で開くなどとは、当時では重大な「礼儀違反」であった。つまり、敢えてこの挙に出た親憲は、内容によってはその場で感状を返上する覚悟だったと思われ、家康は笑ってこれを許したそうだが、内心「やりおるのう」と思ったことであろう。
 まだ続きがある。親憲は御前を退出後、こんな言葉を人に語ったという。
「この戦いなど、子供の石合戦のようなもので、恐ろしくもなければ骨折りでもない。昔は今日死ぬか明日死ぬかというような激しい合戦の連続でも、感状など頂いたことはなかった。こんな花見同然の戦で感状を頂けるとは、大笑いじゃ」

 次に安田上総介。彼もまた戦功が大きかったのだが、直江兼続と仲が悪かったため、その功が家康の耳には届かなかったらしく、感状はもらえなかった。そして彼は感状をもらった人にこう言ったそうな。
「この度は感状をいただけて良かったのう。俺一人だけは誰も手柄を申し立てる者がおらず、せっかくの武功も虚しくなってしもうたが、皆に劣っているとは思わんぞ。俺は殿(景勝)のために命を捨てて戦っておるのじゃ。この程度の武功など申し上げるまでもない。公方(秀忠)のためになぞ、露ほどにも働くことはないわい。お主も今後も殿を第一に考えて働けよ。公方の感状など、こんなもの面目でも何でもないわ」
 いやはや、すさまじい言葉である。


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