狂歌・落首編 その2(天正年間以降)

ここでは戦国後期(天正年間以降)に関する狂歌や落首などを、管理者の独断によりピックアップしてご紹介します。横書きご容赦下さい。


かぞいろとやしなひ立てし甲斐もなく いたくも花を雨のうつ音
 

これは天正元(1573)年、将軍足利義昭が信長に反旗を翻したときに京に見られた落首である。義昭は信長の力を借りて将軍となり、初めは良かったが次第に自分の意のままにならないことに不満を持ち、前年に信長から十七箇条に及ぶ意見書を突きつけられたのをきっかけに行動に出るが、結局は二条城を攻められ和議を結ぶ。(『信長公記』)


日の本に隠れなき名を改めて 果は大野の土橋となる
 

天正元(1573)年八月、越前国主朝倉義景は一族の景鏡に裏切られて大野郡山田荘賢松寺で自刃した。信長から自領の大野郡を安堵された景鏡は土橋信鏡と改名して再出発を目論むが、翌年数万の一向一揆勢に狙われ、平泉寺衆徒を率いて戦うが討死してしまう。これはその際に大野郡で歌われたという、景鏡のことを皮肉った狂歌である。


おさめしるその源もながれずば すみかはるべき時やきにけん
 

これは狂歌ではないが、天正元(1573)年九月、源義家が自ら彫刻したという肖像を本尊とする美濃持是院という寺で、兎庵という人物が詠んだ歌である。平氏を名乗る織田信長の、草木もなびくその強大な権勢を目の当たりにして、源氏の勢力もついに衰えるべき時が来たのであろう、という思いを詠んだ歌である。(『美濃路紀行』)


やきだされあたりにみちてうるさしや なにかせかかせさてはもうかせ
下京は太子のてきにあらねども みな家ごとにもりやなりけり
 

天正元(1573)年七月、織田信長は槇島城を落とし足利義昭を河内に追放するが、この一連の戦いで京都上京一帯は信長により焼き払われてしまった。これは天正二(1574)年の正月末頃に復興中の京都で詠まれた落首で、初めの歌は下京の民衆が上京に宛てて送ったもの、次の歌はそれに対する上京からの返歌である。(『尋憲記』)


桂田と富田二段の争いも 果はかまにてほくびきられぬ
 

これは天正二(1574)年に越前で起きた争いを皮肉った狂歌である。朝倉家を寝返った富田長秀(長繁)は、信長の長島一向一揆討伐時に戦功を挙げるが冷遇されたため、同じく寝返った桂田長俊(前波吉継)の出世をねたみこれを攻め滅ぼした。その上魚住景固父子まで謀殺したため人望を失って一向一揆勢に狙われ、対峙中に味方に裏切られて狙撃され哀れな最期を遂げたという。


信長はいまみあてらやいひはざま 城をあけちとつげのくし原
 

天正二(1574)年正月、武田勝頼は大兵を率いて美濃に侵入、わずか一ヶ月半の間に信長方の十八の城砦を抜いた。これは戦勝気分にわき返っている武田軍の陣中で詠まれた戯れ歌といい、「いまみ(今見)」「あてら(阿寺)」「いひはざま(飯羽間)」「あけち(明知)」「くし原(串原)」と、武田勢が抜いた城が詠み込まれている。(『甲陽軍鑑』)


信玄のあとをやうやう四郎殿 敵のかつより名をはなかしの
 

これは「四郎殿」(武田勝頼)が天正三(1575)年の長篠の戦いで織田・徳川勢に壊滅的な大敗を喫し、数多くの重臣を失って帰国した際のものである。高坂昌信が民衆に敗戦をさとられないように、準備しておいた旗や槍などを持って迎えに行ったが、結局は隠し通すことはできず、札にこのような落首が書かれ立てられたという。(『甲陽軍鑑』)


勝頼と名乗る武田の甲斐なくて 軍(いくさ)に負けて信濃わるさよ
 

これも長篠の戦いに関する落首である。一説に勝頼は、馬場信房をはじめとする譜代重臣たちからの「自重されますように」との意見を退け、面目にこだわって決戦を挑み大敗したという。余談だが、重臣筆頭の馬場信房は無理矢理勝頼を甲斐に退却させて踏みとどまり、刀の柄に手を掛けたまま抜きもせず討たれたと伝えられている。(『松平記』)


上杉に逢うては織田も手取川 はねる謙信逃げるとぶ長
 

これは天正五(1577)年の加賀手取川の戦いに関する京童の歌である。この戦いで信長勢は上杉謙信から追撃され、増水した手取川で溺死する者数知れずという大敗を喫したのだが、後ろに続いていた信長は、前線が退却を始めるやいなや、ただ一騎逃げ帰ったという。「はねる」「とぶ」という言葉が、勢いに乗って追撃する上杉勢と、飛ぶように逃げ帰った信長の様子を上手く表している。


あら木弓はりまのかたへおしよせて いるもいられず引もひかれず
なにしおふさよの朝霧たちこもり 心ぼそくもしかやなくらん
 

これは天正六(1578)年の播磨上月城の戦いの際、五月晦日付けの陣中からの以徹宛て書状に吉川元長(元春嫡男)が書いた狂歌である。荒木村重の謀反で播磨に立ち往生した秀吉の様子と、もはや落城は時間の問題の上月城の様子を詠んでいる。「さよ」とは上月城のある佐用郡を指し、鹿介はさぞ心細くて泣いているだろうという意味である。なお、余裕であろうか、これに続いて元長は「一笑々々」とも記している。(『吉川家文書別集』)


いくたびも毛利を頼みにありをかや けふ思い立つあまの羽衣
 

天正六(1578)年十月、荒木村重は突然信長に反旗を翻して有岡(伊丹)城に籠もり、翌年九月には包囲をかいくぐって尼ヶ崎城へと脱出した。これはその際、村重を翻意させるよう信長から命じられた一族の荒木久左衛門が、尼ヶ崎城に赴くにあたって詠んだ狂歌である。「毛利勢の援軍を心待ちにしていたが無駄であった」という無念の思いがにじみ出ている。(『信長公記』)


無常やな国を寂滅することは 越後の金の諸行なりけり
 

天正六(1578)年三月、上杉謙信の急死により上杉家に御館の乱が勃発した。北条氏政は武田勝頼に弟景虎救援を依頼するが、勝頼は一旦出陣したものの、黄金一万両などの条件で景勝と和睦、ために景虎は滅ぶ。これは金に目がくらんだ勝頼が、平家物語にある「諸行無常の鐘」のように、無情にも景虎と領国までをも「金」で滅ぼしたことを皮肉って甲斐三日市場に立てられた落首という。(『小田原北条記』)


秋風にみなまた落つる木の葉かな 寄せては沈む浦浪の月
 

天正八(1580)年八月、島津義久は大軍を動員して肥後水俣城の相良義陽を攻めた。これはその際に見られた矢文合戦における歌で、上の句は島津勢が城内に射込んだもの、下の句は城内からの返歌である。しかし「寄せるなら寄せて見ろ、逆に沈めてやる」と言い放ったものの、程なく義陽は嫡男忠房と二男頼房を人質に差し出して降伏する。


金銀をつかい捨てたる馬ぞろえ 将棋に似たる王の見物
 

天正九(1581)年二月、織田信長は京都の御所東門外において正親町天皇の御前で大馬揃え(観兵式)を行った。各大名のそれぞれ贅をつくした出で立ちは京都の人々を驚かせ、古来例のないことともっぱらの評判であったという。これはその際、各大名の金銀ちりばめた華やかな装いを、金・銀・馬(成り角)・王と将棋の駒に懸けて詠んだ歌である。(『醒睡笑』)


心知らぬ人は何ともいはばいへ 身をも惜まじ名をも惜まじ
 

これは天正十(1582)年六月の本能寺の変の直前に明智光秀の詠んだもので、家康の接待役を急遽降ろされて毛利攻めを命じられた光秀が、積年の恨みと先行きの不安から家臣の進言を容れて謀反を決意し、安土から居城の近江坂本城へ戻った際に詠んだ歌と伝えられる。(『明智軍記』)


昨日まで城の修理した勝家が 今日は柴たく灰と成りけり
 

これは天正十一(1583)年の近江賤ヶ岳の戦いで秀吉に敗れ、居城の越前北ノ庄城で自刃した柴田勝家について、後日秀吉から一首を求められた細川幽斎が歌ったものである。「城の修理」に勝家の官称修理亮を、「柴たく」に柴田をかけ、「灰となりけり」で自刃後城が炎上した様子を伝えている。(『細川家記』)


何事もかはり果てたる世の中を いかでや雪の白く降るらむ
 

天正十二(1584)年十一月、羽柴秀吉と上杉景勝に挟まれて窮した佐々成政は、家康に救援を求め厳寒のさらさら越え(ザラ峠越え)を決行、苦難の末に浜松にたどり着く。しかし時すでに遅く、家康も織田信雄も成政の申し出には応じなかった。これは悄然と帰国した成政が富山に帰り着いたときに詠んだもので、落胆した様子がよくにじみ出ている。


備前もの身はなまくらか知らねとも 堤や岩は大切れぞする
 

天正十三(1585)年四月、紀州討伐に赴いた羽柴秀吉は太田左近宗正の籠もる太田城を水攻めで落としたのだが、包囲中に宇喜多勢の持ち場の堤が切れて水が逆流、多数の溺死者を出す事件があった。これはその際に紀州方で詠まれた狂歌で、「備前物(の刀)はなまくらだが、(武者は切れないくせに)堤や岩はよく切れる」と秀吉勢を嘲ったものである。(『根来焼討太田責細記』)


徳川の家につたふる古箒(ほうき) 落ての後は木の下をはく
家康のはき捨られし古箒 都へ来てはちりほどもなし
 

これは天正十三(1585)年十一月に徳川家を出奔して秀吉の下に参じた石川伯耆守数正に関する歌である。「古箒」とは「伯耆」にかけて老臣数正を指し、「木の下」は秀吉の旧姓にかけている。しかし彼はのちに信濃松本八万石を与えられており、そこそこの待遇はされていたのだが、やはり「裏切者」的イメージがあり、こう皮肉られたのであろう。(『改正三河後風土記』)


暮るるまで押しねやしたる御そく飯 世々の継ぎ目を違えじがため
 

天正十四(1586)年十一月、後陽成天皇が即位した。即位の礼当日は多数の拝観者が集まるが、延々と儀式が続き、夜更けになってもまだ終わらないでいた。この歌はそれを皮肉ったもので、「そく飯(飯粒を潰して作った糊)」を即位にかけている。「押しねやす」とは、飯粒をへらで押しつぶして良く練り、粘り気を増すことをいう。(『醒睡笑』)


二た世とは契らぬものを親と子の 別れむ袖の哀れをも知れ
 

天正十五(1587)年五月、秀吉の大軍の前に抗しきれず、ついに島津義久は剃髪し龍伯と改め降伏する。その際に義久は娘を人質として差し出したのだが、これはその際に詠んだ歌である。後にこれを知った秀吉は、戦国武将ではなく娘を持つ一人の父親としての義久の心情を推し量り、人質の娘を義久の元へ返したという。


上ひげをちんちろりんとひねりあげ 口のあたりに鈴虫ぞ鳴く
 

これも上の歌と同じく島津義久が秀吉に降伏した際に詠まれた狂歌である。最後まで抵抗した大口城主新納忠元は、義久の命を受け頭を丸めて秀吉のもとに伺候した。忠元が秀吉から下された大盃に注がれた酒を飲み干した際、口ひげがかすかに鳴ったのを聞きつけた細川幽斎がこの下の句を詠んだところ、忠元は直ちに上の句を付け、居並ぶ諸将を感心させたという。


在陣をするがのふじの山よりも たかねにかうは馬のまめかな
 

天正十八(1590)年三月、秀吉は全国の大名を従えて北条氏政・氏直父子討伐に出陣、小田原城を包囲した。長陣を嘆いたある人が「曾我兄弟が昔、水の他は馬に与える飼葉もないと貧窮を詠んだが、今の自分は正にそれだ」と嘆いたところ、これを聞きつけた秀吉の右筆大村由己が詠んだ歌だという。「たかね」は「富士の高嶺」と「飼料の高値」にかけられている。(『醒睡笑』)


山中を攻むれば明くる箱根山 逃ぐるも早き足がらの敵
 

これも北条氏政・氏直父子討伐時の歌である。秀吉軍は三月二十九日早暁、城将松田康長と援将北条氏勝ら四千の兵が守る山中城をあっという間に攻め落としたが、城方では松田康長は奮戦(討死)したものの、北条氏勝らは戦いが始まるや真っ先に逃げ出した。この歌は北条勢のその逃げ足の早さを皮肉ったもので、「明くる」は「夜が明ける」と「城を空ける」にかけられている。(『醒睡笑』)


黒皮を袴にたちて着てみれば 襠(まち)のつまるは襞(ひだ)の狭さに
 

これは天正十八(1590)年秋、蒲生氏郷が会津黒川城に入城したときの城下の狭さと混雑ぶりを皮肉ったものである。これがきっかけとなったかどうかは判らないが、氏郷は程なく黒川城下の整備を決意するに至り、同時に地名も若松と変えて現在の会津若松の礎を築く。「黒皮」は「黒川」に、「襠」は「町」に、「襞」は「飛騨(当時氏郷は飛騨守)」にかけられている。


昨日たち今日きて見れば衣川 裾の綻(ほころび)さけ上るらん
 

天正十八(1590)年十月、陸奥玉造郡などで木村吉清父子の非政に怒った大崎・葛西旧家臣らが、領民と共に一揆を起こした。これはその鎮圧に赴いた蒲生氏郷が帰路衣川にさしかかったときに賦役の人夫が詠んだもので、「さけ上る」は「(衣服の綻びが)裂けあがる」と「鮭が上(のぼ)る」にかけている。これに感じ入った氏郷は、人夫の賦役を免じて帰したという。(『名将言行録』)


石普請城こしらえも要らぬもの 安土小田原見るにつけても
寺々の夕べの鐘の声聞けば 寺領取られて何としようや
村々に乞食の種も尽きずまじ 搾り取らるる公状の米
まつせとはべちにはあらじ木の下の さる関白を見るにつけても
おしつけてゆえばゆわるる十らく(聚楽)の 都の内は一らくもなし
十ぶんになればこぼるゝ世の中を 御存知なきはうんのすへ哉
 

これは天正十九(1591)年十一月に「長せ河忠実」という人物が、当時京都において詠まれた落首を写したものという。前年天下統一を果たした秀吉だが、この年二月には千利休を切腹させるなど常軌を逸した行動をしはじめる。これらは早々と奢りの見えてきた秀吉政権に対する庶民の不満や先行きの不安を表したもので、不幸にもそれは的中し、秀吉の歿後わずか二年ももたず豊臣政権は崩壊する。(『古文書研究』)


世の中に我は何をか那須の原 なすわざもなく年やへぬべき
 

これは文禄元(1592)年に、会津宰相蒲生氏郷が会津から上京した際に那須野の原を過ぎたあたりで詠んだものである。「なすわざもなく年やへぬべき」と詠んだところに、「秀吉政権下で大封は得たものの、何もしないうちに歳を重ねてしまった」という悶々とした心情が見て取れる。彼もやはり密かに「天下」を志した武将の一人だったのであろう。(『蒲生氏郷紀行』)


ならかしやこの天下殿二重取り とにもかくにもねだれ人かな
 

文禄元(1592)年九月、豊臣秀吉は経済行為を乱すとして奈良・京・大坂・堺において金貸しを検挙した。この歌はその際に見られた落首で、「奈良坂やこの手柏のふたおもて とにもかくにもねだれ人かな」のパロディ版である。「ならかし」とは「均(な)らす」すなわち「徳政」の意味だが、ここでは通常の徳政とは違う意味で用いられている。(『醒睡笑』)


世を渡るわざのなきゆえ兵法を かくれがとのみたのむ身ぞうき
兵法にかちをとりても世のうみを わたりかねたる石の舟かな
 

これは剣術柳生新陰流の祖・柳生石舟斎宗厳の詠んだもので、「私には兵法以外の取り柄もなく、またその兵法で世渡りしようとしても、私は重い石の舟なので変遷激しい世の中の荒海を上手く渡ることは出来ない」というやや自嘲気味の歌である。「かち」には舟の「舵」と兵法の「勝ち」をかけていて、進退に窮した大和の小領主柳生氏の苦労が良く出ている。出典は石舟斎が65歳の時に著した『石舟斎兵法百首』。


武蔵野やしのをつかねて降る雨に 蛍よりほかなく虫もなし
 

これはある時秀吉が紹巴に「奥山にもみぢふみわけなく蛍」と発句し、脇句を付けよと命じたところ、紹巴が「蛍は鳴く虫に候はず」といぶかったが、そこへ細川幽斎がこの歌を詠み秀吉を喜ばせた。しかし歌意は蛍が鳴くということではなく、雨降りの夜には虫は皆鳴きやみ、光を発する蛍以外に虫はいないという意である(『常山記談』)。ただし、『士談会稿続編』では「武蔵野にしのをつかねて降る雨に 蛍ならでは鳴く虫もなし」とある。


太閤が一石米を買いかねて 今日も五斗買い明日も五斗買い
 

文禄元(1592)年正月、豊臣秀吉は無謀にも明国征伐を企てて朝鮮へ出兵した。初めは良かったが、小西行長が平壌を占領する頃から前線では百姓達の逃散などで兵糧が欠乏しはじめ、加えて各地でゲリラ戦を起こされて対応に苦慮、膠着状態となってしまう。これは戦場における兵糧などの不足と、掛け声倒れになった自身の渡海を「五斗買い(御渡海)」にかけて、京童が秀吉を皮肉った落首と伝えられる。


世の中は不昧因果の小車や よしあし共にめぐり果てぬる
 

文禄四(1595)年七月、豊臣秀吉は秀頼の誕生で何かと邪魔になった甥の秀次を高野山にて切腹させ、しかも翌八月には秀次の一族をことごとく京都三条河原で処刑した。戦乱には慣れっこの京童たちも、その余りのむごたらしさに「天下は天下の天下なり。(中略)ゆく末めでたかるべき政道にあらず」という有名な落書とともに、この歌を添えたと伝えられる。


打割りてつがれぬものは備前鉢 つかうものにも用心をせよ
 

これは文禄・慶長期の備前宇喜多家に起こった内紛に関する落首である。主君秀家お気に入りの長船紀伊守・中村治郎兵衛の傍若無人な振る舞いに業を煮やした戸川肥後守・花房志摩守ら四家老が相談の上で紀伊守を殺害し、このため秀家と険悪な雰囲気となったときに秀家の門に貼られていたものという。(『備前軍記』)


二たびと帰らんこともまた難し いまぞ別れの老いが身ぞ憂き
残し置くそのたらちねの妻や子の 嘆きを思ふ風ぞ身にしむ
 

これは慶長の役の際、軍監として出陣した豊後臼杵城主太田一吉に請われ、医僧として従軍した臼杵安養寺の僧慶念が著した『朝鮮日々記』の中に見られる狂歌である。この二首は出発に際して詠まれたものであるが、妻子を残したまま、二度と帰ってくることが出来ないかも知れない異国の戦場へ旅立つ不安がよく表れている。


国々の百姓どもを太閤の 思食(おぼしめ)さるる御朱印ぞかし
太閤に思ひたまひし百姓を 捨て物にするつらき心や
 

これは上記の慶念が朝鮮で詠んだ狂歌で、秀吉から全軍撤退が命ぜられたという噂が流れた際のものである。初めの句では素直に「太閤様は我々のことまで心遣いをしていらっしゃる」と喜ぶが、次の句でそれが「我々百姓を捨て物にしている」と直属する大名や侍大将たちへの恨みに変わっているのが読みとれる。(『朝鮮日々記』)


秋の田をからで其儘(そのまま)ただおきの 心なかおか何をいふさい
 

これは細川幽斎父子が丹後田辺城を領していた頃、領内の百姓が詠んだ狂歌である。ある年田畑の出来が悪く、百姓達は検見(作柄の実地検査)を願い出たが忠興はこれを聞き入れず、検見を実施しなかった。これに怒った百姓達は忠興を「ただ置き」に、幽斎を「何を言ふさい」とこき下ろし、天下の才人大名二人を痛烈に皮肉っている。(『武者物語』)


徳川のはげしき波にあてられて 重き石田の名をや流さん
御城に入て浮世の家康は 心のまゝに内府極楽
 

秀吉没後、石田三成は何度か家康を陥れようと画策するが失敗、逆に前田利家が病歿した際に朝鮮の役で三成に恨みを持つ武闘派諸将に狙われた。窮した三成は家康の下に庇護を求めるが、その結果奉行職を解かれ佐和山に引退させられてしまう。これはその時の落首で、家康が苦もなく伏見城を手に入れて好き放題に振る舞う様を諷刺したものである。(『校合雑記』)


争いに負けしも道理右馬介 熊谷とても虎に恐るる
 

これは石田三成が家康から奉行職を解かれて佐和山城へ蟄居させられた直後、家康は朝鮮役の目付として非曲があったとして石田党の福原直高・熊谷直盛・垣見一直・太田一吉を伏見城に呼び出し、領地没収や逼塞などの処分を科した際に詠まれたものである。右馬介とは三成の妹婿である福原、虎はもちろん加藤清正のことを指す。(『関ヶ原軍記大成』)


古も今もかわらぬ世の中に こころのたねを残すことのは
藻しほ草かきあつめたる跡とめて むかしにかへす和歌のうらなみ
 

慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いの際に細川幽斎(藤孝)は西軍に居城の丹後田辺城を包囲された。朝廷は、万一幽斎が死ねば古今伝授が滅亡するのをおそれ、勅使を派遣し包囲を緩めさせ幽斎に開城脱出させようとしたが、初めの歌はその際に幽斎が弟子の智仁親王に古今伝授の書類とともに添え奉ったもの、後の歌は烏丸右大弁光広に相伝の歌書一箱ともに送ったものである。(『改正三河後風土記』)


関ヶ原八十島かけてにげ出でぬと 人にはつげよあまりにくさに
 

慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いの際、石田三成は乱戦となっても動かない島津勢に二千石の士・八十島助右衛門を使者として派遣するが、無礼な伝え方をしたため怒った島津豊久に追い返されてしまった。さらに八十島は味方が敗勢になるや、ただ一騎馬に鞭打って本陣から逃げ去ってしまった。これは彼の行動に呆れ果てた磯野平三郎という者が、戦いのさなかに詠んだ歌という。(『関ヶ原軍記大成』)


目のくろき人と云はれし治部少も 負けめになれば赤目をぞする
 

慶長五(1600)年の関ヶ原の戦いでは、石田三成は次々と自軍が潰え去っていきながらも最後までよく奮闘した。この歌は、日頃は目の黒き人(「傲岸」の意か)と言われる三成も、いざ戦いに負けるとなると赤目(泣き顔)になると皮肉ったものだが、結果的には敗れたが三成は東軍諸隊をさんざん手こずらせる大奮戦をする。(『関ヶ原軍記大成』)


山の端の月は昔にかわらねど わが身のほどは面影もなし
涙のみ流れて末は杭瀬川 水の泡とや消えむとすらむ
 

慶長五(1600)年、関ヶ原の戦いで敗れた西軍の宇喜多秀家は、家臣の進藤三右衛門と黒田勘十郎とともに戦場を脱出して伊吹山に逃れたが、その際に数日の間、白樫村の五郎右衛門という者の家に匿われた。これはその時秀家が詠んだ歌と伝えられ、戦に敗れて悄然とした姿がにじみ出ている。(『備前軍記』)


破れ笠道にかけつつ乞食くとも 宮が下にて蓑は頼まじ
 

これは後に「夜討ちの大将」として知られる塙団右衛門の残した狂歌である。彼の前身は『古老茶話』では北条家の臣川井喜介、『塩尻』では遠州横須賀の人時雨左之介というが定かではない。彼は当時本多美濃守忠政に仕えていたが不足があったようで、「蓑」を「美濃守」にかけたこの歌を残して致仕したと伝えられている。


大将はみなもとうじの茶臼山 ひきまわされぬもののふぞなき
 

慶長十九(1614)年十一月、徳川家康は全国六十余州の大名を従えて出陣し、本陣を天王寺の茶臼山に置いて豊臣秀頼・淀殿の籠もる大坂城を攻撃、世に言う大坂の陣が始まった。これはその際に見られた落首で、「みなもとうじ(源氏)」とは家康のことを指し、その「うじ」を続く茶臼山の「茶」と合わせて「宇治の茶」にかけている。(『醒睡笑』)


御所柿は独り熟して落ちにけり 木の下に居て拾ふ秀頼
 

これは、いわゆる大坂の役の前に、家康のいる二条城の柿の枝に結わえられた短冊に書かれていた落首と伝えられるものである。「御所柿」に家康をかけ、「家康は老齢だから程なく死に、(豊臣)秀頼はそれを待っていればひとりでに天下は転がり込んでくるだろう」といった意味の歌で、「拾ふ」は秀頼の幼名「おひろい」にかけられている。(『古人物語』)


織田が捏(こ)ね羽柴が搗(つ)きし天下餅 座して喰らふは徳川家康
 

これは戦国三英傑に関する有名な狂歌である。信長・秀吉・家康という戦国期の頂点に立つ権力者の変遷を、それぞれの事績をふまえた上で多少デフォルメ(誇張)されてはいるが、簡潔明瞭な言葉の中に良く伝えている。なお、上の句を「信長が捏ね秀吉搗きし天下餅」、あるいは下の句を「座したままにて喰ふは徳川」とするものなどもある。

 ※戦国前期・後期についてはコンテンツの便宜上区分けしたもので、特に意味はありません。


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