赤井直正
あかい なおまさ
1529〜1578
丹波氷上郡後家(ごや)城を本拠に奥丹波三郡を領した土豪赤井時家の二男で、室は関白近衛前久の娘。幼名才丸、通称は悪右衛門。初め荻野氏を称し十三歳で朝日城主となるが、後に叔父の荻野伊予守秋清を刺殺し黒井城主に。智謀にも優れた猛将で「丹波の赤鬼」と怖れられ、縁戚の八上城主波多野秀治らと連繋して再三明智光秀の侵攻をくい止めた。亡くなる直前、降伏勧告に訪れた敵将脇坂安治の堂々たる態度が気に入り、代々の家宝である珍獣・貂(てん)の毛皮(槍鞘)を安治に譲ったと伝えられ、安治はこれを家宝とした逸話が残る。天正六年三月、面疔を病み没した。享年五十歳。法名「抽戦院殿実山常休大居士」、墓は高野山奥の院にある。

赤川元保
あかがわ もとやす
 ? 〜1567
安芸毛利氏譜代家臣房信の四男で、天文19年以来毛利家五奉行の一人を務める。しかし他の奉行らと対立した上に専横ぶりが目立ち、永禄6年隆元の急死時に和地誠春と共謀して毒殺したと疑われて左遷され、永禄10年に自決させられた。

赤座直保
あかざ なおやす
  ? 〜1606
豊臣秀吉の家臣。通称は久兵衛、備後守を称し越前今庄二万石を領した。小早川秀秋、次いで堀尾吉晴の寄騎を務める。関ヶ原でははじめ西軍の大谷吉隆(吉継)の配下に属すが、決戦時に東軍に寝返った。戦後失領し前田利長に仕えたが、増水中の越中大門川で水馬して溺死したという。

赤沢朝経
あかざわ ともつね
 ? 〜1507
沢蔵軒宗益。清和源氏小笠原氏の末裔で、初め常盤十郎朝経と名乗る。近畿管領細川政元の重臣となり、特にその軍事面で活躍。三好氏と結んで河内高屋城の畠山義英を大和に追い払った。永正四(1507)年、武田元信とともに丹後守護一色義有攻めに三百余騎を率いて出陣するが、阿弥陀峰城を攻略中に政元が暗殺されるという事件が起き、自軍が総崩れとなる中を退却しようとしたが果たせず、敵に囲まれ自害した。

明石守重
あかし もりしげ
生没年不詳
播磨浦上氏の臣・景親の子で妻は宇喜多直家の娘。掃部助、名(号)は全登(「てるずみ」「たけのり」「なりとよ」等とも)。宇喜多家の家老でジョアンの洗礼名を持つ熱心なキリシタンとして知られ、十字架の軍旗を用いたという。関ヶ原の際には宇喜多勢の先鋒を務め奮闘するが、西軍が敗れたため戦場を離脱し備中足守に潜伏した。大坂の陣の際には豊臣方に加わり司令官として活躍したが、大阪落城後の「明石狩り」にもかかわらず、その後の消息は不明。

秋田実季
あきた さねすえ
1576〜1659
出羽檜山城主安東愛季(よしすえ)の二男で、檜山城のち湊城主。通称下国安東太郎、秋田城介を称す。天正十五年に従兄の道季が戸沢氏の後押しにより挙兵し争乱となるなど戸沢・小野寺・南部氏らとの局地戦に明け暮れたが、由利衆の援助もありこれを制圧し天正十九年には豊臣秀吉傘下の大名として公認された。関ヶ原の際には東軍に属すが病と称して動かず、戦後常陸宍戸五万石に移された。寛永七年に故あって伊勢朝熊に蟄居、凍蚓(とういん)と号した。万治二年七月二十九日、行年八十四歳をもって没した。

秋元長朝
あきもと ながとも
1546〜1628
武蔵深谷城主上杉憲盛の臣。景朝(元景)の子で通称孫三郎・孫四郎・忠四郎、上野介・越中守を称す。母は関東管領上杉憲政の養女。秀吉の小田原攻めに際しては小田原城に籠もった憲盛に代わって深谷城を守るが開城降伏、のちに井伊直政の仲介で徳川家康に仕え、慶長六年に上野総社一万石の城主となった。

秋山信友
あきやま のぶとも
1530?〜1575
伯耆守、武田氏譜代の重臣で弘治二年には高遠城代・伊那郡代を務める。信玄西上時に一旦織田領の美濃岩村城を落とし、信長の叔母を妻として同城主となる。しかし天正三年の長篠合戦での勝頼敗北後、ほどなく織田勢に包囲され十二月に落城。妻と共に長良川畔で逆さ磔の刑に処されたと伝えられる。

明智秀満
あけち ひでみつ
 ? 〜1582
光秀の女婿(妻は細川ガラシャの姉)で元は三宅弥平次といい、『明智軍記』では左馬助光春の名で見えるが、正しくは明智弥平次秀満。一般に光秀の山崎合戦敗戦時に琵琶湖を単騎で渡った「湖水渡り」の逸話で有名。直後に近江坂本城を堀久太郎秀政の軍に囲まれ、家宝などを秀政を通じて秀吉の元に届けた後に自害したという。

明智光秀
あけち みつひで
1528〜1582
織田信長の家臣で通称十兵衛、日向守を称す。美濃土岐氏の出身とされる信長幕下随一の智将で、惟任(これとう)姓を賜る。天正十年、謀反を起こし本能寺に信長、二条城に信忠を攻め滅ぼすが、報を聞き急遽中国から引き返した羽柴秀吉に京・山崎の合戦で大敗、居城の近江坂本城へ引き返す途中に小栗栖で土民の槍にかかり落命。

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