明智光安
あけち みつやす
 ? 〜1556
美濃斎藤氏の家臣で明智城主。光継の三男で兵庫頭を称す。長兄光綱(光隆とも)の子光秀が幼少のため本宗家を継いだ。道三と義龍の対立時には道三に応じるが、弘治二年の長良川合戦にて道三が敗死したため明智城に退却して籠城。しかし程なく義龍に城を攻められて自刃した。

浅井亮政
あざい すけまさ
 ? 〜1542
浅井は「あざい」と読むのが正しい。近江浅井郡小谷城を本拠とする国人で、京極氏の下で勢力を徐々に拡張し、越前の朝倉孝景や美濃の斎藤道三らと結び江北の覇者となる。近江守護の六角定頼とは終始近江の覇権を争って戦った。

浅井長政
あざい ながまさ
1545〜1573
久政の長子で備前守を称した北近江・小谷城主。最初は賢政を名乗るが、後に長政に改名。信長の妹・お市の方を妻に貰い受け織田家との友好を深めるが、信長の約束違反とも言える朝倉攻めに際には情誼を優先して朝倉方に加担、信長の背後から攻めかかった。勇将の誉れ高く姉川合戦では奮戦するも三年後に信長の再攻撃を受け、三人の娘を城外に落とした後力尽きて自害。

浅井久政
あざい ひさまさ
 ? 〜1573
亮政の長子で下野守を称した北近江・小谷城主。父亮政の死により1542年に家督を嗣ぐが、六角氏や京極氏の勢力に挟まれて苦況に陥る。1560年に子の長政や家臣たちと家の存続方向をめぐって対立、家督を長政に譲って隠居した。内政的には領国支配の基礎を確立させるなど、業績を残している。

朝倉景鏡
あさくら かげあきら
 ? 〜1574
朝倉家重臣。主君義景を裏切り自領の大野郡におびき寄せて自害させ信長に随身したが、さして厚遇はされなかった。後に一向一揆に襲われて主従三騎になるまで討ち減らされながらも奮戦、そのまま敵陣に斬り込んで壮絶な討死を遂げたという。

朝倉景連
あさくら かげつら
 ? 〜1570
景伝の子。朝倉家同名衆の一人で、代々朝倉家一乗谷奉行を務めた重臣。主に外交方面で活躍、1561年に義景が大窪浜で大々的に犬追物を催したときには、主君と間違えられるほど美々しく着飾って参加したという。

朝倉孝景
あさくら たかかげ
1493〜1546
越前国主で朝倉家4代。越前国の統一を果たし、分国法「朝倉敏景十七箇条(「朝倉孝景条々」ともいう)」を制定するなど政治にも優れた功績を残した、文武両道に秀でた名君。

朝倉教景
あさくら のりかげ
1477〜1555
入道名宗滴沙弥、越前朝倉氏初代英林孝景の子。当主の孝景を補佐して加賀一向一揆の鎮圧と平定に尽力、敦賀郡司を務めた。軍奉行一筋に生き、一向一揆との合戦のたびに数限りない戦功を挙げた朝倉家中随一の名将。

朝倉義景
あさくら よしかげ
1533〜1573
孝景の子で朝倉家5代。さして暗君ではなかったが名族意識が強く、信長に対抗し姉川合戦で大敗。信長の朝倉討伐の際には重臣の景鏡にも裏切られて一乗谷を脱出、越前大野・賢松寺に追い込まれて無念の自害。

浅野忠長
あさの ただなが
1592〜1660
甲斐守。備後三原浅野藩二代当主。忠吉の孫(二女の子)だったが祖父忠吉に継嗣が無かったため養子となり家を嗣いだ。大坂の陣の際には忠吉とともに従軍。内政面では地元で頼兼新開・横山新開を拓くなど多くの事業に携わって功績を挙げ、加えて三原で初の関船「八幡丸」を建造した。万治三年、広島で没した。

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