浅野忠吉
あさの ただよし
1546〜1621
長忠の子で右近大夫、備後三原城主。初め織田信長に仕える。浅野長政の従兄弟にあたり、長政とその子幸長に仕えて家老を務め、幸長が紀伊和歌山に封ぜられた際には新宮で二万八千石余を領した。大坂の陣の際には南下する大坂方との樫井の戦いで奮戦、幸長の後嗣長晟が安芸広島へ移ると備後三原三万石の主となり、三原浅野藩初代となった。

浅野長政
あさの ながまさ
1547〜1611
安井重継の長男で浅野長勝の養子となる。豊臣家五奉行の筆頭で正室は秀吉夫人ねねの妹。秀吉の信頼も厚く、九戸政実の乱や朝鮮の役の際には軍監を務めた。家康と仲が良く関ヶ原では東軍に属し、後に家康の囲碁相手として重用されたという。

浅野幸長
あさの よしなが
1576〜1613
左京太夫。長政の長男で、紀伊国和歌山城主。朝鮮の役後石田三成らの吏寮と対立した「七人衆」の一人。鉄砲術に優れていたと伝えられるが、大坂の陣直前に謎の急死。前後して加藤清正も病死したため徳川方の手による毒殺説も囁かれた。

朝比奈信置
あさひな のぶおき
1528〜1582
丹波守元長の子で通称藤三郎、右兵衛太夫・駿河守を称す。名は政貞、氏秀とも。駿河用宗(持舟)城主で、はじめ今川氏真に仕えたが、武田信玄の駿河侵攻の際に武田家に随身、山県昌景の同心となり百五十騎の侍大将となる。庵原山城将を務めたが、天正十年の信長・家康の侵攻に抗せず開城、庵原館で子の信重とともに自刃した。

朝比奈泰朝
あさひな やすとも
生没年不詳
今川氏の重臣。備中守泰能の子で通称左京亮、備中守を称す。遠江掛川城主で、永禄十一年に今川氏真が、武田信玄に駿河を逐われた際にこれを迎え入れ、五ヶ月にわたって防戦するが結局は開城。後に氏真に従って伊豆戸倉城から相模小田原城へと移るが、それ以後の消息は不明。

足利晴氏
あしかが はるうじ
1508〜1560
古河公方足利高基の子で幼名満千王丸、元服時に将軍義晴の偏諱をもって晴氏を名乗る。国府台の戦いで対立していた小弓公方足利義明を滅ぼすが、河越の戦いで敗れ公方の座を子の義氏に譲る。後二度北条氏に対して挙兵するが何れも失敗、栗橋城に幽閉されたまま世を去った。

足利藤氏
あしかが ふじうじ
 ? 〜1566
古河公方足利晴氏の長子で幼名幸千代王丸、元服時に将軍義藤(後に義輝と改名)の偏諱をもって藤氏を名乗る。北条氏に古河城を追われ一旦安房の里見氏を頼るが、上杉謙信の協力で古河城に戻る。しかし程なく北条氏の攻勢が強まり城を脱出、再び里見氏を頼ったという。

足利義昭
あしかが よしあき
1537〜1597
室町幕府第12代将軍義晴の子で、第15代将軍。第13代将軍義輝の弟。兄義輝暗殺時には出家の身であったが細川藤孝らの手引きで還俗し、信長に担がれて将軍位に就く。武力を持たない割に陰謀癖があり、やがて信長と対立して追放され毛利領備後鞆の浦に走り、これによって室町幕府は終焉を迎えた。晩年は昌山と称し、秀吉の御伽衆として仕え秀吉傘下の一武将として世を終えた。

足利義輝
あしかが よしてる
1536〜1565
室町幕府第12代将軍義晴の子で、第13代将軍。上泉信綱に剣を学び「剣豪将軍」として有名だったが、当時畿内を牛耳っていた三好氏と対立、三好長慶の家臣・松永久秀らに御所を急襲され、後まで語り継がれるほどの奮戦もむなしく大勢によってたかって討ち取られた。

足利義晴
あしかが よしはる
1511〜1550
室町幕府第11代将軍義澄の子で、第12代将軍。亀王丸と称した幼時は播磨白旗城の赤松義村のもとにいたが、大永元(1521)年に父義澄の敵であった管領細川高国に迎えられて将軍位に就いた。しかし細川晴元と三好元長らの抗争に巻き込まれ、元長に追われて近江へ脱出。一旦帰洛するも再び晴元と対立して近江坂本へ逃れ、そのまま常在寺で歿した。

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