鰺坂長実
あじさか ながざね
生没年不詳
備中守。上杉謙信の家臣で越中新庄城主。越中一向一揆が椎名康胤と謀って蜂起した際には援軍の直江景綱とこれを討伐、手取川の合戦で織田勢を撃破した後に七尾城の守備を命じられる。御館の乱の際には景勝側について活躍した。
蘆名盛氏
あしな もりうじ
1521〜1580
盛舜の子で従五位下修理大夫・大膳大夫を称す。蘆名氏16代当主で会津黒川城主。奥州の諸豪族を傘下に組み入れ、佐竹義重や上杉謙信らとも戦い蘆名氏全盛期を作った。軍政両面に優れた名将だが、経済基盤の引き締めのため徳政令を多発したこともあり、領国の治政には相当苦労したと伝えられる。永禄四年に隠居し止々斎(竹岩)と号したが、後を嗣いだ盛興が病没したため再び政務を執った。天正八年六月十七日没、行年六十歳。
蘆名盛重
あしな もりしげ
1576〜1631
陸奥会津黒川城主。佐竹義重の二男で初め平四郎、後結城義親の養子となり義広と称す。天正十四年に蘆名氏20代当主として迎えられ盛重と改名するが、同十七年に摺上原で伊達政宗に大敗し、実家に逃げ帰る。翌年秀吉から常陸江戸崎四万五千石を与えられるも関ヶ原不参により失領、兄義宣とともに秋田へ赴いた。寛永八年六月に同地で歿す。享年五十六歳。
阿蘇惟将
あそ これまさ
? 〜1583
九州・阿蘇大宮司。大友・龍造寺・島津の三大勢力に囲まれていたため、日向の甲斐宗運の協力を得てもっぱら外交に奔走し、圧迫されつつあった龍造寺氏と結び領国を維持した。
安宅冬康
あたぎ ふゆやす
? 〜1564
三好長慶の弟で淡路島炬口(たけのくち)城主。三好(淡路)水軍を率いて活躍したが、松永久秀の謀略により長慶から謀反の疑いをかけられて呼び出され、飯盛城で謀殺された。
阿閉貞征
あつじ さだゆき
? 〜1582
元は浅井長政の家臣で近江山本山城主。主家滅亡後に信長の傘下に入ったが、本能寺の変の後明智光秀方に加担したため秀吉方に攻められて殺された。
跡部勝資
あとべ かつすけ
? 〜1582
甲斐武田家の譜代家老。跡部氏は甲斐守護代を務めたこともある名家で、信玄と勝頼2代に仕えた。武田氏滅亡時に織田方と戦い信州諏訪にて討死。
穴山信君
あなやま のぶきみ
1541〜1582
甲斐河内の国人・信友の子で通称彦六郎、天正八年に梅雪斎不白と号す。母が武田信玄の異母姉で、信玄の甥にあたる駿河江尻城主。信玄の没後は勝頼を見限り家康に降伏、信長から甲斐河内の本領のみ安堵された。本能寺の変時に家康とともに堺にいたが、知らせを聞き国元へ戻る際に家康と同行せず単独帰国しようとしたため、帰路の途中山城木津川の渡し付近で一揆に襲われて落命した。同地飯岡に墓がある。本墓は清水の霊泉寺。
姉小路自綱
あねがこうじ よりつな
1540〜1587
飛騨守護三木良頼の子で、飛騨高山城主。姓は三木、名は光頼・頼綱とも言い、大和守・左衛門佐・侍従に任ぜられる。妻は斎藤道三の娘。本能寺の変後佐々成政と共に秀吉に抗すが、金森長近に攻められ降伏。子の秀綱は松倉城からの敗走中に大野川村で領民に殺害され、ここに三木氏は断絶した。
安倍元真
あべ もとざね
1513〜1587
はじめ今川氏の臣。刑部大夫信真の子で大蔵尉を称す。駿河城将を務めるが、武田信玄の侵攻の前に支えきれず、本領の駿河安倍郡井川郷に退く。後に徳川家康に属し、天正五年以降、主に武田氏との戦いで活躍。遠江伯耆塚城将を務めた。
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