甘糟景継
あまかす かげつぐ
 ? 〜1611
備後守。上杉謙信・景勝の家臣。長尾家譜代の臣登坂加賀守清高の長子で、天正五年に上杉謙信の命で甘糟家を嗣ぎ、はじめ藤右衛門清長と称した。のち上杉景勝の一字を賜り景継と改める。剛勇無双と伝えられ、護摩堂・五泉城主を経て白石城代となり、二万石を領した。

甘糟長重
あまかす ながしげ
 ? 〜1604
近江守。名は景持(かげもち)とも言い、この名で広く知られている。上杉謙信の重臣で桝形城主。謙信の信頼も厚く、その部隊は高い戦闘力を持ち、柿崎景家とともに謙信軍団の双璧をなした。かの川中島合戦の際に上杉軍の殿(しんがり)を務めたことでも知られる猛将。

尼子勝久
あまご かつひさ
1553〜1578
新宮党誠久の子で通称孫四郎。晴久による新宮党粛清の際に逃れてのち上洛、東福寺の僧となる。のち山中鹿介らに担がれて尼子家再興を策し出雲奪還を図るが失敗。織田信長を頼り羽柴秀吉の下で再度出雲侵攻を試みるが、毛利勢に上月城を囲まれ孤立、信長の命により援軍に着陣した秀吉が引き上げたため落城、自刃した。

尼子清定
あまご きよさだ
生没年不詳
諱は清貞とも。持久の長子で刑部少輔を称す。経久の父で出雲月山富田(がっさんとだ)城主。出雲国守護京極持隆の下で守護代を務め、応仁の乱以降は京極氏不在の領国経営と安定に努めた。対外的には山名氏の侵入を撃退、国内では松田・三沢氏など反京極勢力を鎮圧、尼子氏発展の基礎を築いた。

尼子経久
あまご つねひさ
1458〜1541
清定の長子で民部少輔のち伊予守。出雲月山富田(がっさんとだ)城主。個人的には「無欲の人」との評があり、相手が欲しがる物は何でも気前よく与えたというエピソードが残る。初め出雲守護代として京極政経の支配下にあったが、徐々に勢力を伸ばし近隣諸豪族を傘下に組み入れ独立、戦国大名化した。一時は出雲・隠岐・石見・伯耆・美作・備後・備中に勢力を伸ばし、尼子家を山陰の大大名に発展させた名将。

尼子晴久
あまご はるひさ
1553〜1578
経久の嫡子政久の子で修理大夫を称す。名ははじめ詮久(あきひさ)と名乗ったが、将軍義晴の偏諱を受け晴久と改名。天文二十三年、毛利元就の謀略に掛かり重鎮国久・誠久父子ら新宮党を滅ぼして以来家運が開けることはなく、毛利元就と一進一退の攻防を繰り返すが、防戦中に月山富田城で急死した。

尼子久幸
あまご ひさゆき
 ? 〜1541
清定の二男で下野守を称す。兄経久と共に苦労を重ね、常にその側にあってよく補佐した。天文九年からの毛利元就の吉田郡山城攻めに出陣した晴久(当時は詮久)に従軍するが、翌年正月晴久の本陣が奇襲を受けた際に体を張って晴久を守り通したが、引き替えに自身は戦死した。

尼子義久
あまご よしひさ
 ? 〜1610
晴久の嫡子で右衛門督を称す。父晴久の急死により家督を嗣ぐが、もはや劣勢を挽回することは出来ず、毛利元就に月山富田城へ攻め入られ降人となり開城、安芸円明寺に幽閉された。尼子家再興の意志はなかったようで、のち仏門に入り剃髪して友林と号し、毛利家の庇護下で歿した。

天野景貫
あまの かげつら
生没年不詳
はじめ今川氏の臣。宮内右衛門尉秀藤の子で通称小四郎、宮内右衛門尉を称す。天文十六年の三河田原本宿の戦いで戦功を挙げ、義元から感状と遠江奥山郷を与えられた。遠江犬居城主となるが永禄十二年に徳川家康に降伏、後に今度は武田信玄・勝頼に仕えて家康と戦う。武田氏滅亡後は北条氏直に仕え、佐竹義重と戦った。

天野隆重
あまの たかしげ
1503〜1584
安芸志和堀城を本拠とする国人で、はじめ大内義隆、のち毛利元就に属す。元就麾下の猛将として知られ、天文十九年には熊谷信直とともに吉川興経を攻め滅ぼし、永禄九年には元就の五男元秋の補佐として月山富田城代を務めた。伯耆末吉城や播磨上月城の戦いにも参戦している。

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