天野康景
あまの やすかげ
1537〜1613
通称三郎兵衛。徳川家譜代の重臣。家康の小姓上がりで、高力清長・本多作左衛門(重次)とともに岡崎三奉行の要職を務めた。「仏高力 鬼作左 どちへんなしの天野三郎兵衛」の歌は有名(「どちへんなし」は「どっちつかず」の意)。家康が関東に移ってからは江戸町奉行に任命。
甘利虎泰
あまり とらやす
? 〜1548
備前守。武田信虎・信玄の重臣で譜代家老衆を務める。武田二十四将の一人で合戦巧者の猛将として知られ、板垣信方らとともにその戦いぶりは敵味方を震えあがらせたという。上田原の合戦で村上義清に敗れ、奮戦虚しく板垣信方らとともに討死した。
甘利昌忠
あまり まさただ
生没年不詳
虎泰の子で左衛門尉、名は晴吉ともいう。武田信玄の重臣。父譲りの猛将で百騎持ちの侍大将を務め、板垣信憲とともに父虎泰亡き後も譜代家老として活躍。永禄九年以降の西上野侵攻時には真田氏ら地侍衆との取り次ぎを務めた。
鮎貝忠旨
あゆかい ただむね
生没年不詳
盛次の長男。摂津守を称し、名は宗信とも。伊達家の家臣で鮎貝城主。父盛次と不和になりひそかに最上義光に通じて謀反したが、救援依頼をした義光からの援軍がなく、盛次らの迅速な攻撃の前に城を捨てて最上領内へ奔った。
鮎貝盛次
あゆかい もりつぐ
1555〜1624
盛宗の子で安房守。名ははじめ宗重、晩年には日傾斎を称す。伊達家の家臣で鮎貝城主。長男忠旨が最上義光にそそのかされ籠城の上謀反、盛次はただちに政宗にこれを告げて攻め、忠旨は逃亡した。政宗は盛次の忠志を賞して咎めだてず、子孫は奉行職を務めた。
鮎川清長
あゆかわ きよなが
生没年不詳
揚北(あがきた)衆と呼ばれる越後の国人で岩船郡大場(葉)沢城主。本庄氏の支族だが天文八年に房長と対立して戦い、これを出羽に追う。後に色部氏の仲介で和睦するが、後年房長の子繁長が上杉謙信に背いたときは子の盛長とともに謙信方について戦った。
鮎川盛長
あゆかわ もりなが
生没年不詳
摂津守清長の子で通称孫次郎、揚北(あがきた)衆と呼ばれる越後の国人で岩船郡大場(葉)沢城主。隣郷の有力国人本庄繁長が上杉謙信に背いたときに謙信方についたため、繁長に城を攻め落とされた。御館の乱では景虎方についたが、上杉景勝と新発田重家との抗争には中立的態度をとった。
荒川長実
あらかわ ながざね
生没年不詳
伊豆守。上杉謙信の家臣。越後十七将の一人に数えられる猛将で、永禄四年の川中島の合戦の際、武田信玄の本陣に単騎斬り込んだのは彼であると「上杉年譜」は伝える。一説にその時討死したとも後の合戦で討死したとも言われるが、詳細は不明。
荒木氏綱
あらき うじつな
生没年不詳
丹波天田郡の国人氏好の子、山城守を称す。波多野氏の麾下筆頭格の重鎮で多紀郡井串(細工所)・園部城主。天正七(1579)年の明智光秀丹波侵攻の際、光秀は波多野秀治の拠る八上城を落とせず氏綱に母を人質として預け和議により開城させた。以後光秀の麾下に属すよう求められるが固辞、本庄の館へ退いて隠居し子の氏清を代わりに仕えさせたという。
荒木村重
あらき むらしげ
1535〜1586
摂津池田氏六人衆の一人義村の子で織田信長の重臣。通称弥介または信濃、のち摂津守を称す。はじめ池田勝正のち織田信長に仕え、有岡城を居城として摂津国主となる。天正六年に信長に背き攻撃されるが一人で城を逃げ出したため、妻ダシ(Daxi)や親類縁者は尼崎七松で皆殺しにされた。茶人としても高名で、利休七哲の一人と伝えられる。
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