長谷川秋重
はせがわ あきしげ
生没年不詳
通称与五左衛門、上杉謙信麾下斎藤朝信の家臣。永禄七年の第五回川中島合戦(対峙)の際に、武田方の豪傑安間彦六弘重と全軍注視の中で一騎討ちを行い、数カ所の傷を負ったが見事討ち果たし、謙信から褒美の金帛を賜ったという。
長谷川藤広
はせがわ ふじひろ
1566〜1617
藤直の子で通称左兵衛。伊勢一志郡の出身で初め北畠氏に仕え、のち徳川家康に仕える。妹の於夏の方が家康の側室という関係で信任を深め、慶長十一(1606)年に長崎奉行に就任。のち堺奉行となるまで生糸貿易に携わった。「大津そろばん」の祖としても知られる。
支倉常長
はせくら つねなが
1571〜1622
常隆の次男で通称六右衛門、伊達政宗家臣。1613年政宗の命によりフランシスコ会士ルイス・ソテロと欧州に渡り、スペインで国王ドン・フェリッペ三世に謁見、受洗してドン・フェリッポ・フランシスコを名乗り、ローマではパウロ五世に謁し市民権を得た。なお、渡欧の目的には諸説があり、未だに不明。
畠山義続
はたけやま よしつぐ
? 〜1590
能登守護畠山義総の二男で通称左衛門佐。父の死後家督を嗣いで能登守護となり七尾城に拠ったが、重臣間の争いが激化し、天文二十(1551)年に家督を子の義綱に譲って出家、徳祐と称す。上杉謙信の救援を仰ぐが永禄九(1566)年に義綱とともに能登を追放され、再入国を果たせず歿した。
畠山義綱
はたけやま よしつな
? 〜1593
能登守護畠山義続の子で通称次郎、のち修理太夫を称す。隠居した義続の後を嗣いで守護となるが、家臣の抗争と自身の不行状などから父とともに近江へ追放された。一度能登侵攻に成功するが復権には至らず、流浪先の近江海津で歿したという(異説あり)。
波多野秀治
はたの ひではる
1529〜1579
丹波の土豪で八上城主。明智光秀の天正七年の丹波攻めの際、よくこれを防いだが光秀の謀略にかけられ、彼の人質(一説には光秀の実母とも)を信じ開城を決意。しかし、光秀と本梅城で会盟中に謀られて弟秀尚とともに捕らえられ、安土へ送られて磔刑に処された。一説に護送途中に捕らえられた際に受けた傷がもとで落命したともいう。
蜂須賀家政
はちすか いえまさ
1558〜1638
正勝の嫡子で通称彦右衛門、阿波守を称す。はじめ織田信長、後豊臣秀吉に仕えた阿波徳島城主で、長篠から朝鮮の役までの各地の合戦で活躍。関ヶ原の際は形の上は西軍に属したが病気と称して動かず、子の至鎮が東軍に属したことから旧領を安堵され、これを機に家督を譲り剃髪して蓬庵と号した。
蜂須賀正勝
はちすか まさかつ
1526〜1586
尾張土着の乱波上がりと伝えられる謀将で、通称は小六のち彦右衛門、修理大夫を称す。秀吉の片腕で、藤吉郎時代からの参謀役として知られ、四国征伐までの大小数知れぬ合戦で活躍した。特に竹中半兵衛・黒田官兵衛らが秀吉に随身するまでは、多方面にわたって秀吉を助けた播磨龍野城主。
蜂須賀正元
はちすか まさもと
1555〜1571
正勝の末の異母弟で通称七内。兄正勝とともに伊勢長島一向一揆との戦いに出陣したが、退陣中に一揆勢に襲われて討死。
蜂屋貞次
はちや さだつぐ
1539〜1564
徳川家康の家臣。1563年の三河吉田城攻めで渡辺半蔵とともに活躍したが、三河一向一揆の際には一揆側に加担して敗北、のち大久保忠勝の取りなしで帰参。再度の吉田城攻めに参加し敵二人を斬るが銃弾が顔に当たって戦死。
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