蜂屋頼隆
はちや よりたか
1534〜1589
出羽守。元は美濃土岐氏の家臣、のち斎藤氏に仕える。織田信長の美濃侵攻時に信長家臣となり、数々の合戦で活躍。信長没後は秀吉に仕えて敦賀四万石を領し、羽柴敦賀侍従と呼ばれる。しかし子がなかったため家は断絶した。

服部半蔵
はっとり はんぞう
1542〜1596
徳川十六将の一人。本名は石見守正成で、通称「大半蔵」。本能寺の変の際、家康の「伊賀越え」を一族を挙げて護衛、無事国元に帰還させた。配下に多数の忍び衆を抱えて諜報活動で活躍するが、半蔵自身の実像は忍者というより槍術に優れた家康麾下の有能な戦闘指揮官であった。現在の東京「半蔵門」は、ここに彼の屋敷があったことからその名がある。

花房職秀
はなふさ もとひで
1549〜1616
宇喜多家家臣で通称助兵衛(すけのひょうえ)。宇喜多家筆頭の猛将だったが、小田原攻めの際秀吉を痛烈に批判し却って褒められるなど、毒舌家として有名。

馬場信房
ばば のぶふさ
1514〜1575
武田家の譜代家老衆で「四臣」の一人。美濃守。信春ともいう。教来石(きょうらいし)氏の出自で、天文十五年に馬場伊豆守の名跡を継いで馬場民部信房と称した。軍政ともに優れた智将で信玄の片腕となって活躍。しかし長篠合戦では勝頼を諫めるが聞き入れられず、殿軍を務めて勝頼を無事に退却させた後に戦死した。

早川長政
はやかわ ながまさ
 ? 〜1615
豊臣秀吉の家臣。通称喜八郎、主馬頭を称す。小牧の役に従軍して以来、検地奉行や京都方広寺大仏殿の作事奉行を務めた。朝鮮の役にも従軍、豊後大分郡の直轄地代官を経て同府内城主となる。関ヶ原では西軍に属し戦後失領、大坂の役の際入城して城と運命を共にした。

林 新次郎
はやし しんじろう
 ? 〜1573
織田信長家臣。秀貞の子で、名は通政とも。姉川の合戦や本願寺との石山合戦にも従軍して活躍するが、長島一向一揆との戦いの途中撤退時に襲撃され、殿軍を務めて奮戦したが討死した。

林 秀貞
はやし ひでさだ
 ? 〜1580
通称佐渡守、名は通勝とも。織田信長の譜代筆頭家老。柴田勝家らと弟信行を擁立しようとして信長と対立するが、稲生(いのう)の合戦で敗れて失敗。信行誅殺後も家老の位置にあったが、1580年突然追放され、失意のうちに世を去ったという。

林 美作守
はやし みまさかのかみ
 ? 〜1556
秀貞(通勝)の弟。兄秀貞の信行擁立時にこれに加担して稲生(いのう)の合戦で信長と戦うが敢えなく戦死。その首は信長自らがあげたという。

原 胤貞
はら たねさだ
生没年不詳
式部大夫胤清の子で、下総生実城主。臼井城主臼井景胤の歿後、子の久胤の後見となり、乗っ取る形で同城を手にするが、里見家臣正木時茂に両城とも奪われた。後千葉胤富と協力して奪回に成功、上杉謙信の攻撃を受けたが撃退したという。

原 虎胤
はら とらたね
1497〜1564
武田信虎・信玄二代に仕えた重臣。胤信の子で美濃守を称す。永正十年以来信虎に仕えるが、天文二十二年、宗旨問題から一時武田家を出奔し、北条氏康の庇護を受けるが程なく帰参した。その武勇から「夜叉(やしゃ)美濃」と恐れられた猛将。

次の10人

INDEX

iモード戦国浪漫