保科正直
ほしな まさなお
1542〜1601
元武田家家臣で信州伊那高遠城代正俊の子。織田方に高遠城を囲まれたとき、一旦城を捨てて帰農。後に家康の麾下に参じて小牧の役の際には殿を務めた。小田原攻めや九戸政実の乱にも従軍。後の会津藩祖の名君・正之の祖父でもある。
細川澄元
ほそかわ すみもと
1489〜1520
阿波守護細川義春の子だが、管領細川政元の養子となり、同じく養子の澄之・高国と家督相続をめぐって不和となる。永正五(1508)年に足利義稙を奉ずる高国に敗れて近江から阿波へと奔る。永正十六(1519)年に三好之長の加勢を得て再挙し高国を破るが、翌年之長が高国に敗れたため再び阿波に戻り、程なく病死した。
細川政元
ほそかわ まさもと
1466〜1507
勝元の子。文明五(1473)年五月、勝元が四十四歳で没し跡を嗣ぐ。幼名聡明丸、右亰大夫。足利義材・畠山政長と不和となり、明応二(1493)年四月にクーデターを起こして義材を廃し、義澄を立て政長を河内正覚寺に攻め滅ぼす。以後管領となって実権を握るが三人の養子による後継者問題で家中が分裂。さらに修験道に凝り政務を放棄したため永正四(1507)年六月二十三日、澄之派の香西元長らに京都で殺された。享年四十二歳。
細川忠興
ほそかわ ただおき
1563〜1645
幽斎藤孝の子で幼名熊千代、のち越中守。妻はガラシャ夫人の名で知られる明智光秀の娘・玉。父藤孝に似て時の権力者に上手く取り入り、関ヶ原では東軍に属して活躍、戦功により豊前小倉四十万石の主となる。元和六年に隠居して剃髪、三斎と号した。
細川晴元
ほそかわ はるもと
1514〜1563
澄元の子。室町幕府管領で一時近畿に勢力を伸ばしたが、家臣の三好長慶に追われて将軍義輝・前将軍義晴と近江に脱出。その後も復権を画策したが果たせず長慶と和睦して隠居、失意のうちに摂津普門寺で病死した。
細川藤孝
ほそかわ ふじたか
1534〜1610
三淵大和守晴員の二男で幼名与一郎、細川元常の養子となり足利義晴・義輝・義昭に仕え、後に幽斎と号す。将軍就任前の義昭(当時は覚慶)が松永久秀によって奈良興福寺一乗院に幽閉されていたときには一計を案じ、無事に救出した。常に時の権力者の側について家を保った超一流の文化人武将で、教養が深く朝廷からも信頼を寄せられた。「百人一首抄」など多数の著書も残っている。
堀 秀政
ほり ひでまさ
1553〜1590
美濃斎藤氏の臣秀重の子。信長から秀吉に仕え、近江長浜・佐和山城主を経て越前北ノ庄城主となり十八万石を領した。信長・秀吉の信任も厚く政治手腕に優れ、長久手の合戦や九州征伐でも活躍。しかし小田原攻め従軍の際、38歳の若さで陣中にて病没。
堀 秀村
ほり ひでむら
1557〜1599
もと浅井長政家臣で近江坂田郡鎌刃城主。織田信長の浅井攻めの際に信長に臣従、横山城代・羽柴秀吉の与力となる。しかし1574年、旧家老でともに信長に降った樋口直房が甲賀へ逐電して捕らえられ処刑されたため、所領を没収された。
堀江宗親
ほりえ むねちか
生没年不詳
上杉謙信の家臣で、駿河守を称す。越後鮫ヶ尾城主。御館の乱の際には景虎側につき、一千の兵を率いて御館に入城、景勝軍と戦った。御館落城後、景虎が鮫ヶ尾城に入った際に突如宗親が離反、ために景虎は小田原への脱出に失敗して自刃に追い込まれたという。
堀尾吉晴
ほりお よしはる
1543〜1611
帯刀先生(たてわきせんじょう)。名は可晴とも書く。豊臣家三中老の一人。秀吉の小姓より出世して遠江浜松十二万石の城主となる。水野忠重殺害事件に巻き込まれ、三河池鯉鮒宿で加賀井重望に斬りつけられ負傷。後に孫で出雲松江城主・忠晴の後見役を務めた。
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