堀内氏善
ほりのうち うじよし
1549〜1615
熊野別当職紀伊新宮城主氏虎の二男で通称は新次郎、安房守を称す。名は氏義・重俊とも。秀吉の紀州征伐時には籠城抗戦するが降伏、のち水軍を指揮して活躍した。関ヶ原では鳥羽城の九鬼嘉隆に招かれ西軍に属して失領、加藤清正に預けられ出家して道也と号し、元和元年に熊本で歿した。
本願寺光佐
ほんがんじ こうさ
1543〜1592
顕如上人。浄土真宗石山本願寺第十代宗主証如の子で第十一代宗主。戦国期の反信長勢力の中心的存在で、十年間にわたる石山戦争で信長と互角に渡り合ったが、ついには正親町天皇の勅命を受け降伏に近い和睦。後に秀吉の命で寺を大坂から京七条堀川に移した。
北郷忠虎
ほんごう ただとら
1556〜1594
薩摩島津家の家臣。時久の二男で本郷氏第十一代の日向荘内地頭。弾正忠のち讃岐守を称す。天正元年、肝付氏の大隅住吉攻めを父とともに堅守して撃退。同十一年以降は隈本城守備・竹宮攻略・肥後攻め・筑紫攻めに活躍。秀吉の九州攻めに際しては石田三成のもとへ出向き謝罪した。朝鮮の役にも従軍するが唐島で病歿。
北郷時久
ほんごう ときひさ
1530〜1596
薩摩島津家の家臣。忠親の子で本郷氏第十代の日向荘内のち薩摩宮之城領主。通称右衛門、名は忠豊とも。永禄五年、日向伊東氏との戦いの軍功により貴久から大隅末吉を拝領。飫肥城島津忠親救援の他、対肝付氏戦で活躍。秀吉の九州攻めに際しては石田三成へ子を質として謝罪、荘内を安堵された。嫡子相久自殺のため、二男忠虎が家督を嗣ぐ。
本庄実仍
ほんじょう さねより
生没年不詳
上杉謙信の初期からの重臣で、越後古志郡栃尾城主。通称新左衛門、入道後宗緩を称す。謙信が栃尾城に入ったときから側近としてその政権の中枢にあって活躍、直江実綱・大熊朝秀とともに奉行職を務めた。
本庄繁長
ほんじょう しげなが
1539〜1613
上杉謙信・景勝の重臣で越後本庄城主。通称は弥次郎、越前守を称し、晩年は雨順斎全久と称した。一時謙信に信玄への内通を疑われ反旗を翻したが降伏。武力・人望とも一級の下越の名将で、後に景勝の下で陸奥信夫郡福島城主となった。
本城常光
ほんじょう つねみつ
? 〜1562
晴久・義久二代に仕えた山陰尼子家の勇将。石見銀山の警護役として山吹城を預かったが、これを狙った毛利元就に謀られ甘言に乗り降伏、殺された。
本庄秀綱
ほんじょう ひでつな
生没年不詳
上杉謙信の家臣。美作守慶秀の子で通称清七郎、本庄実仍の後を嗣いで越後古志郡栃尾城主となる。御館の乱の際には景虎側についたため、景勝勢に栃尾城を攻撃され落城、城を捨てて会津へ逃れたと伝えられるがその後の消息は不明。
本田公親
ほんだ きみちか
生没年不詳
薩摩島津家の家臣。親兼の子で大隅の国人で守護代を務めた本田氏第十一代の大隅曾於郡地頭。通称与左衛門、大炊大夫を称す。文禄四年、島津義久が隠居して大隅富隈城に移ったのちに義久の家老を務めたという。朝鮮役(慶長の役)に出陣。
本多重次
ほんだ しげつぐ
1529〜1596
徳川家康の家臣で通称作左衛門。岡崎三奉行の一人でその性格から「鬼作左」と呼ばれ、秀吉の母大政所が岡崎に下向の際、その居館に柴を積み上げて遇し秀吉から不興を買った。彼による短文手紙の名文句「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」は有名。
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