井伊直親
いい なおちか
 ? 〜1562
今川義元・氏真の家臣で遠江井伊谷城主。後の徳川四天王・直政の父。永禄三年の桶狭間の戦いで父直盛が戦死したため、井伊惣領家を継いだ。しかし同五年に氏真から謀叛の嫌疑をかけられ、朝比奈氏の手によって殺害された。

井伊直政
いい なおまさ
1561〜1602
直親の子。幼名万千代、天正三年に徳川家康に近侍として仕えて以来数々の戦功を挙げ、徳川四天王の一人として称された。武勇に秀で「井伊の赤備え」と聞くと敵はみな戦慄したという。関ヶ原では西軍・島津義弘の退却時にその殿(しんがり)を務めた島津豊久を討ち取ったが鉄砲で撃たれ負傷。戦後近江佐和山城十八万石を領すが、慶長七年二月に合戦の傷が原因で死去した。享年四十二歳。

井伊直盛
いい なおもり
1506〜1560
遠江の国人で、井伊谷城主井伊氏の惣領。通称次郎、信濃守を称す。永正十一年、大河内貞綱が斯波義達と反今川の挙に出たときこれに呼応して三岳城に拠るが、朝比奈泰以に攻められて落城。この後今川氏に属すが、永禄三年の桶狭間の戦いで討死した。

飯尾連竜
いいお つらたつ
 ? 〜1565
今川義元・氏真の家臣で遠江曳馬(引馬)城主。豊前守乗連の子で通称善四郎、豊前守を称す。永禄七年に徳川家康に内通したため、居城を氏真の兵に攻められてた。一旦講和するが、翌年十二月に氏真に駿河へ呼び出され、そこで暗殺された。

飯河宗祐
いいかわ そうすけ
 ? 〜1606
細川忠興の家臣。山城守信堅の子ではじめ篠山五右衛門を名乗る。三千石を知行し、関ヶ原の際には幽斎とともに田辺城に籠城。子の与四郎(長岡宗信)は忠興に従い岐阜城攻めに活躍し豊前で六千石を領したが、慶長十一年七月二十七日、父子ともに誅殺された。

飯田興秀
いいだ おきひで
生没年不詳
大内義興・義隆の奉行で小座敷衆の一人。広秀の子で弥五郎・大炊助・石見守を称す。天文三年頃から義隆の九州出陣に従い、筑前御笠郡代を務める。陶晴賢挙兵の際にはこれに従い、後に義長に仕えた。弓馬の故実に通じ、肥前松浦氏の一族籠手田定経との交流があった。

飯田義武
いいだ よしたけ
 ? 〜1592
安芸毛利氏譜代の家臣。児玉就方とともに毛利元就直属の水軍河ノ内衆の提督を務める。厳島の合戦の際には毛利軍本隊を厳島包ヶ浦に輸送、引き続いての防長侵攻時には浦宗勝とともに一揆鎮圧に功を挙げ周辺海域を封鎖した。また伯耆弓浜合戦や豊前沖・筑前立花沖海戦でも活躍した。

飯沼長実
いいぬま ながざね
 ? 〜1600
十郎左衛門。長継の子で通称は勘平。父の死後一時前田利家に仕えるが、金沢で人を殺めて出奔、のち秀吉・織田秀信に仕え美濃池尻城将を務めた。関ヶ原の際には秀信の下で奮戦するが、岐阜城攻防戦において戦死。一説に福島・加藤(嘉朗)勢との戦闘中に火薬庫が爆発して火傷を負い、これがもとで防戦不能となり戦死したともいう。

飯沼長資
いいぬま ながすけ
1580〜1600
織田秀信の家臣で「岐阜四天王」の一人。十郎左衛門長実の子で勘平を称すが、父長実も勘平を称したため小勘平と呼ばれた。関ヶ原の際には織田秀信の先鋒として前哨戦の米野の戦いで活躍、一柳家中の勇士大塚権太夫と一騎討ちを演じこれを討ち取るが、ついには力尽き、池田輝政の弟長吉に討ち取られたとも同家中の森寺長勝に討たれたともいう。

飯沼長継
いいぬま ながつぐ
 ? 〜1583
はじめ美濃斎藤氏の家臣で安八(あんぱち)郡池尻城主。長就の子で通称は勘平。斎藤氏滅亡後は織田信長に仕え、元亀元年の姉川の戦いなどで活躍した。信長没後は秀吉に仕えたが、天正十一年、対立する織田信孝に内通した疑いを持たれ、氏家内膳の手により大垣城で殺された。

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