五百蔵左馬進
いおろい さまのしん
 ? 〜1615
土佐長宗我部氏の家臣。桑名太郎左衛門の二男で香美郡五百蔵城主五百蔵氏の養子となる。通称は藤次郎、実名不詳。関ヶ原の際には敗軍の中、盛親を守って大坂まで退却した。主家滅亡後は紀伊田辺で隠棲するが大坂の役の際に入城、夏の陣で盛親に従い河内八尾での激戦の末、盛親の馬前で討死したという。

猪飼昇貞
いかい のぶさだ
生没年不詳
通称甚介、姓は「猪飼野」とも。堅田(かたた)衆と呼ばれる近江堅田の土豪で、はじめ六角義賢の家臣。1570年の志賀の陣終結を機に織田信長に属し、明智光秀の傘下に組み入れられたがその後の消息は不明。

池田貞秀
いけだ さだひで
1558〜1619
島津義弘の家臣。土佐守の子で通称六左衛門、飯野衆。優れた武人として知られ、伊東氏との合戦をはじめ堅志田合戦・豊後入りで活躍、主家が豊臣氏の傘下となってからは文禄役・小田原合戦・荘内の乱で優れた働きをした。元和五年、義弘の死に際して殉死した。

池田恒興
いけだ つねおき
1536〜1584
恒利の子で名は信輝とも。織田信長の乳兄弟にあたり、信長の旗揚げ以来の宿老。通称勝三郎、紀伊守のち勝入斎と号す。天正八年の荒木村重謀反の際には摂津花隈城を攻略、戦後村重の旧領を与えられた。信長没後は秀吉に従い、長久手役の際には長駆して徳川家康の本国三河を衝く奇策「中入れ」を進言、羽柴秀次軍に属して出陣。しかし徳川家康に作戦を見破られて失敗、戦死した。

池田輝政
いけだ てるまさ
1564〜1613
恒興の次男で妻は家康の娘。元は信長の近習で関ヶ原では東軍に属し緒戦の岐阜城攻めに活躍。決戦では東軍先鋒を務めて奮戦、戦後その功により播磨一国を拝領し姫路宰相と呼ばれた。

池田元助
いけだ もとすけ
1559〜1584
恒興の長男で輝政の兄。名は之助とも。通称勝(庄)九郎、紀伊守。天正八年の荒木村重謀反の際には父恒興とともに摂津花隈城攻略に従軍して戦功を挙げた。信長没後は秀吉に従い、岐阜城主となる。長久手役の際には父とともに羽柴秀次軍に属して出陣するが、長久手で徳川家康勢と激戦を演じた末に戦死した。

石川昭光
いしかわ あきみつ
1550〜1622
陸奥伊具郡角田城主で大和守を称す。伊達晴宗の子で、磐城仙道七郡の領主石川晴光の養子となる。1590年に秀吉に領土を没収されるが、のち政宗の家臣となる。大坂の陣の際は政宗に従い、道明寺口の戦いで活躍した。

石川家成
いしかわ いえなり
1534〜1609
日向守、徳川家康の家臣で石川数正の叔父。桶狭間の戦いの際には丸根城攻撃の先鋒を務め、三河一向一揆との戦いで活躍するなど、西三河を受け持った。家康関東入封時に伊豆梅縄五千石にて隠居、関ヶ原の合戦時は江戸城留守居役を務めた。

石川数正
いしかわ かずまさ
 ? 〜1592
伯耆守。徳川家筆頭家老で軍政両面、特に外交に活躍したが、秀吉に対する方針で家中と対立、さらに秀吉に内通したとのうわさが広まり白眼視されついには大坂へ出奔、秀吉に仕えて後に信濃松本8万石を領した。

石川貞清
いしかわ さだきよ
 ? 〜1625
豊臣秀吉の家臣で通称兵蔵、備前守を称す。石田三成の女婿で、尾張犬山城主と直轄領の信濃木曾代官を務めた。関ヶ原の際には初め丹後田辺城攻囲、次いで犬山城に籠もるが程なく脱出、決戦では奮戦したものの改易された。後に剃髪して宗林と号し、京都で金貸しを営んだという。

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