石川貞通
いしかわ さだみち
生没年不詳
豊臣秀吉の家臣で通称小七郎、備後守を称す。名は家清とも。山城検地奉行を務め、丹波天田郡で二千二百石を領した。朝鮮の役にも従軍、関ヶ原の際には西軍に属して丹後田辺城攻めに参加、戦後改易され南部利直預けとなった。
石川高信
いしかわ たかのぶ
? 〜1581
奥州南部一族(政康の次男)で、南部高信ともいう。甥の晴政に仕えその勢力拡大に軍政両面で貢献した奥州の名将。晴政没後は高信の長男信直が南部家を継いだ。
石黒成綱
いしぐろ なりつな
? 〜1581
通称左近、越中の地侍で西礪波郡木舟城主。上杉謙信の越中侵攻時に上杉家に臣従するが、謙信没後に親上杉派の勝興寺一向一揆と敵対して織田信長に属す。しかし天正九年上杉方に城を奪われたため信長に呼び出され、途中近江長浜で丹羽長秀に家老諸共討たれた。
石田将監
いしだ しょうげん
1589〜1636
名は興純、伊達政宗の家臣。伊達氏の支流で政宗が伏見にいたとき出仕、のち近習となり大坂の役の際に活躍した。政宗が歿した日の夜に同志と江戸を発って帰国、自邸で殉死した。
石田正澄
いしだ まさずみ
? 〜1600
三成の兄で豊臣秀吉の家臣。通称(小字)は弥三、のち木工頭。和泉堺の町奉行職などを務め、近江・河内で二万五千石を領す。関ヶ原の際には近江愛知川に関を設け東征に向かう諸将を阻止、大坂に集結させた。父正継と佐和山城を守るが東軍に攻め落とされ、城に放火して自刃した。
石田正継
いしだ まさつぐ
? 〜1600
三成の父で豊臣秀吉の家臣、隠岐守。通称は藤左右衛門・佐(左)吾左衛門・太郎右衛門など諸説あり、近江で三万石を領す。治政に優れ三成不在時の庶政を執り、また教養豊かな才人としても知られる。関ヶ原の際には一族をあげて佐和山城を守るが東軍に攻め落とされ、城に放火して自刃した。
石田三成
いしだ みつなり
1560〜1600
正継の子。通称佐吉、天正十三年従五位下治部少輔に叙任。豊臣家五奉行の一人。近江国石田村出身で豊臣秀吉側近の吏僚から台頭、秀次失脚後は近江佐和山城主となり十九万四千石を領した。秀吉没後の慶長四年閏三月、前田利家が没すと朝鮮役で恨みを抱いた福島正則らに襲われ、仲裁に入った家康の裁断で佐和山城に隠居した。関ヶ原では西軍の実質的指揮官となり徳川家康と戦うが、連合軍の足並みが揃わず小早川秀秋らの裏切りにも遭って大敗。脱出行中に田中吉政の手に捕らえられ、十月一日に小西行長・安国寺恵瓊らと京都六条河原にて斬首された。法名「江東院正岫因公大禅定門」、墓所は京都大徳寺三玄院。
伊地知重興
いじち しげおき
1528〜1580
重武の嫡子で薩摩島津氏譜代の家臣。通称又九郎、周防守を称す。永禄年間に禰寝重長らとともに肝付氏に内通、貴久に叛旗を翻すが元亀三年に島津歳久に居城大隅小浜城を落とされ、天正二年に下大隅五ヶ所の所領を差し出して義久に降伏。以後は島津氏に忠実に服し、大友氏との戦いなどに従軍した。
伊地知重秀
いじち しげひで
? 〜1594
伊地知氏庶流で島津義久の家臣。通称勘解由左衛門、伯耆守を称す。義久の奏者を務め、天正二年には天草へ、また翌年には肝付氏へと、それぞれ上井覚兼とともに使者を務めた。後に大友氏との耳川の戦いや、龍造寺氏との沖田畷の戦いにも従軍した。
五十公野信宗
いじみの のぶむね
? 〜1587
上杉謙信の家臣で、はじめ能登湯山城主長沢筑前守に仕え長沢勘五郎と称す。永禄十二年謙信に臣従し三条道如斎と称し、五十公野右衛門尉の跡を嗣いで五十公野城主となる。御館の乱の際には景勝につき活躍するが、新発田重家の謀反時に重家に加担したため景勝に攻められ自害した。
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