伊集院忠倉
いじゅういん ただあお
生没年不詳
忠朗の子で島津貴久の重臣で老中を務める。右衛門大夫、のち大和守を称す。天文十八年には父忠朗とともに樺山幸久と菱刈・北原両氏の降和に当たるが、程なく加治木城主肝付兼演が入来院氏らと謀って挙兵したため、父とともにこれを鎮圧して戦後処理を務めた。
伊集院忠朗
いじゅういん ただあき
生没年不詳
忠公の子で島津忠良・貴久の老中筆頭を務めた重臣。通称源四郎、のち大和守を称す。天文十七年に本田薫親が大隅正八幡宮を攻めた際に樺山幸久とともに活躍、軍功により大隅姫木地頭となる。以後日向伊東氏攻めや肝付氏・蒲生氏攻めにも従軍し、軍政両面にわたって活躍した。
伊集院忠棟
いじゅういん ただむね
? 〜1599
忠倉の子で島津義久の老中を務めた重臣。天正二年頃までは忠金を名乗り、右衛門大夫を称す。のち出家して入道幸侃(こうかん)と号す。秀吉の薩摩攻めの際に羽柴秀長のもとに人質として赴く。石田三成に通じ秀吉から荘内八万石の所領を直接与えられたため本家から邪視され、伏見の島津邸にて殺された。一説に当主忠恒(家久)自ら手討ちにしたという。
伊集院久治
いじゅういん ひさはる
1534〜1607
久道の子で島津義久・義弘・家久三代の老中を務めた重臣。三郎兵衛尉・右衛門尉、下野守。天正八年の肥後矢崎城・綱田城攻めを皮切りに、同十二年には肥前神代へ出陣、十四年には大友方豊後緒方城攻めと各地で武功を顕わした。しかし慶長十一年に天草城の処遇をめぐって義久と意見が対立、老中職を辞した。
泉沢久秀
いずみさわ ひさひで
? 〜1615
上杉謙信・景勝の家臣、河内守。御館の乱の際には景勝側につき、のちに奉行職となり主に政策面で活躍、「文禄三年定納員数目録」を作成した。最終的には会津西西置賜郡荒砥城主となり一万一千石を領したという。
泉田重光
いずみだ しげみつ
1529〜1596
安芸守。晴宗以来の伊達家の重臣で、陸奥岩沼城主。1588年に大崎義隆との戦いに伊達政景と共に伊達勢の総帥として出陣するが大敗、自軍の撤退と引き替えに人質となり最上家に一時幽閉される。後に朝鮮の役などでも活躍した。
伊勢貞実
いせ さだざね
? 〜1593
有川貞則の二男で名は貞世・貞序とも。初め有川姓、のち伊勢氏を称す。島津義弘の飯野城在城時の家老と伝えられ、元亀三年の日向伊東義祐との木崎原合戦の際には飯野城を守り切るなど、数々の軍功を顕わした。文禄二年、朝鮮に出陣した際病歿した。
磯野員昌
いその かずまさ
生没年不詳
北近江浅井家筆頭の猛将。姉川合戦では先陣を務め再三信長軍を脅かしたが、最後には降伏。信長を狙撃した杉谷善住坊を捕らえたことでも知られる。後に信長の勘気を被り出奔、晩年は近江国で帰農したとも言われるが以後の消息は不明。
板垣信方
いたがき のぶかた
? 〜1548
武田家親族の譜代重臣で駿河守を称し、名は「信形」とも書く。飯富虎昌と協力して信虎を追放し晴信を国主に据えた。武田家の軍政両面の支柱であったが、天文十七年信濃上田原の合戦において村上義清軍と激突、奮戦したが壮絶な戦死。
板倉勝重
いたくら かつしげ
1545〜1624
伊賀守。元は三河永安寺の僧で還俗して家康に仕える。政治面で頭角を現し家康の信頼を受けて各奉行職を歴任、後には京都所司代の重職を務めた。
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