板部岡江雪
いたべおか こうせつ
1536〜1609
実名は融成(とおなり)。小田原北条家の重臣で右筆も務め、主に外交役として信玄・秀吉・家康らと交渉。主家滅亡後には岡野姓(岡とも)に改姓、秀吉や家康に仕えた。山上宗二から茶の湯秘伝書を譲り受けるなど茶人としても高名。

伊丹康直
いたみ やすなお
1523〜1596
今川義元の家臣で、名は雅勝・康明・秀虎とも。摂津伊丹城主雅興の子で大隅守を称す。享禄二年伊丹落城の際に家臣に守られ伊勢から上野を経て駿河興津へ至る。義元の同朋衆を務め、氏真の時に海賊奉行を拝命。氏真没落後は武田信玄に仕えて船大将となり、最終的には徳川家康の下で船奉行を務めた。

板屋光胤
いたや みつたね
生没年不詳
佐渡守、名は英胤とも。上杉謙信の家臣。天正元年に松本鶴松の後見人となり、越後三島郡小木城代となる。御館の乱の際には景勝側につき活躍、軍功により吉水・富岡の地を与えられ出雲崎の代官となった。

市川信綱
いちかわ のぶつな
生没年不詳
信濃下高井郡木島平を本拠とした土豪で、通称新六郎、治部少輔を称す。村上義清が武田信玄から信濃を追われると信玄に臣従、旧領の安堵と加増を受けた。武田勝頼滅亡後は上杉景勝に仕えた。

市来家親
いちき いえちか
生没年不詳
家朗の子で通称玄蕃左衛門。薩摩島津氏の家臣。島津義久の下で大隅松山地頭職を務めた。天正十二年の肥後相良氏との合戦の際に、手勢松山衆を率いて伊集院忠棟に属し、軍功をあげた。

一条信竜
いちじょう のぶたつ
 ? 〜1582
武田二十四将の一人で信虎の八男、信玄の異母弟にあたる。甲斐の名門一条氏の跡を継ぎ、親族衆として活躍。武田家滅亡時には勝頼が小山田信茂を頼って新府城から脱出した後の城を守り、攻め上った徳川家康軍と激戦の末捕らわれて斬首された。

一宮宗是
いちのみや むねこれ
 ? 〜1560
今川義元の家臣で出羽守を称す。天文二十三年、武田信玄の信濃侵攻に際し、甲相駿三国同盟の誼をもって今川義元が甲斐へ援軍を派遣したときの侍大将を務めた。永禄三年の桶狭間の戦いで討死した。

市橋長勝
いちはし ながかつ
1557〜1620
長利の子。通称九郎左衛門、従五位下下総守。美濃福束のち今尾城主。はじめ織田信長のち豊臣秀吉に仕え、関ヶ原の際には東軍に属して福島正則らと福束城を落とす。その後福束城にあって上方から大垣城への連絡路を絶ち、密使を度々捕らえた。のち伯耆矢橋を経て元和二年に越後三條二万石の加増を受け、合わせて四万千三百石を領した。

一色藤長
いっしき ふじなが
 ? 〜1596
晴具の子。室町幕府御供衆で義輝・義昭に仕える。通称七郎、将軍義輝の初名義藤の偏諱を受け藤長と名乗り、のち剃髪して一遊斎と号す。天文六年式部少輔、二十一年に従五位下に叙任。永禄八年の義輝暗殺の際には細川藤孝らとともに興福寺一乗院覚慶(義昭)の奈良脱出に尽力、以後義昭の側に仕えた。慶長元年四月九日没。甥に金地院崇伝がいる。

伊東重信
いとう しげのぶ
 ? 〜1588
肥前守。伊達氏十一世持宗以来の譜代重臣で、陸奥国分北目城代官(城番)を務める。人取橋の合戦では一隊の将となって活躍、高倉城を守った。1588年に安積郡窪田で佐竹・蘆名連合軍と戦い、奮戦したが討死にした。

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