伊藤盛正
いとう もりまさ
? 〜1623
美濃舟岡城主盛景の子で通称半九郎または彦兵衛、同大垣城主。初名は長玄、のち盛宗・盛政・利吉とも。関ヶ原の際に西軍に属し、城を三成に明け渡す。前哨戦で東軍の市橋長勝に敗れ、決戦後に降伏、所領を没収され図書と改名して前田利常に仕えたという。
伊東義祐
いとう よしすけ
1512〜1585
日向都於郡城主。大和守尹祐の二男で初名祐清。天文六年従四位下に叙し将軍義晴より諱を拝領、義祐を名乗る。同十五年十二月には従三位に昇り、のち剃髪して三位入道と称した。元亀三(1572)年五月の木崎原合戦で島津方に敗れて以来勢力が衰え、天正五年十二月にはついに都於郡城を落とされて豊後へ脱出、日向を奪われた。以後流浪の末に同十三年八月五日、堺で客死。
伊奈忠次
いな ただつぐ
1550〜1610
徳川家康の家臣で備前守を称す。はじめ徳川信康に仕えたが、信康自刃の後は堺に居を移し、本能寺の変の後帰参。以後家康の近侍として行政面で活躍、その農耕法は「伊奈流」と呼ばれ以後幕府の基本政策となった。
稲富祐直
いなどめ すけなお
1552〜1611
元は丹後忌木城主の一色家臣で稲富流砲術の祖。姓は「いなとみ」とも読む。鉄砲の達人で主家滅亡後は細川忠興・松平忠吉を経て尾張義直に仕え、江戸幕府の砲術指南役となる。近江国友村の鉄砲鍛冶集団の組織にもたずさわったとされる。
稲葉一鉄
いなば いってつ
1515〜1588
美濃斎藤家の重臣で、氏家直元(ト全)・安藤守就とともに(西)美濃三人衆と呼ばれた曾根城主。姉川の合戦では家康に加勢し奮戦、信長より家康に次ぐ功として賞された。頑固な性格で知られ、後の「一徹者」の語源となったことでも広く知られる。七度も名を変えているが、本名は良通。
稲葉貞通
いなば さだみち
1546〜1603
良通(一鉄)の嫡子で通称彦六、右京亮・羽柴郡上侍従を称す。はじめ織田信長、のち豊臣秀吉に仕える。父の後を嗣ぎ美濃曾根城主となり、関ヶ原の際にははじめ西軍に属すが、決戦直前に井伊直政・本多忠勝を介し東軍に通じて赦され、戦後豊後臼杵五万石の城主となった。
稲葉正成
いなば まさなり
1571〜1628
美濃十七条城主林政秀の子で、稲葉重通の婿となる。通称は八右衛門、内匠・佐渡守を称す。はじめ羽柴秀吉に仕えるが、後小早川秀秋の家老となり、関ヶ原では煮え切らない秀秋を説得し徳川方に付かせた。戦後秀秋に愛想を尽かし主家を辞し、家康に召し出され美濃羽栗郡で一万石を領した。継室の福(斎藤利三の娘)は後の春日局。
猪苗代盛国
いなわしろ もりくに
生没年不詳
元は会津蘆名氏一族で猪苗代城主。一旦家督を子の盛胤に譲って隠居したが、廃嫡を図り城を奪ったため父子で戦った。のち伊達成実の臣羽根田直景を介して政宗に仕え、摺上原の戦いでは一策を献じ伊達軍大勝の一翼を担う活躍をした。
井上清政
いのうえ きよまさ
生没年不詳
信濃高井郡井上を本拠とした土豪で、通称兵庫、播磨守を称す。はじめ村上義清の傘下にあったが、義清が武田信玄から信濃を追われるとこれに従い、上杉謙信の家臣となる。本能寺の変後上杉景勝の北信濃進出に伴い本拠に戻ったという。
井上元兼
いのうえ もとかね
1486〜1550
河内守光兼の子で安芸毛利氏譜代家臣中最大勢力を誇った井上党の領袖。元就の家督相続実現に協力したが、次第に元就の指図にも従わずわがままな言動が目立ちだしたため、天文十九年元就の命を受けた福原貞俊・桂元澄らに襲われ自刃、一族は粛清された。
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