猪子高就
いのこ たかなり
? 〜1582
通称兵助。はじめ斎藤道三、のち織田信清を経て織田信長の近侍となる(経歴には異説あり)。以後度々軍使として活躍、紀伊雑賀・根来攻めや播磨三木城攻めに従軍。本能寺の変の際に信忠とともに二条御所で討死。
伊庭貞隆
いば さだたか
生没年不詳
近江守護六角高頼の重臣で出羽守を称す。1502年と1514年の二度にわたって主君高頼と対立して戦う(第一次・第二次伊庭の乱)。二度目の戦いの際には浅井亮政の支援を受けて足かけ6年にも及ぶ抵抗をするが、結局は敗れ制圧された。
指宿忠政
いぶすき ただまさ
1543〜1625
薩摩島津氏の家臣で、通称清左衛門。島津氏の重臣で日向高城城主山田有信・有栄に属す。天正十五年の秀吉の九州攻めの際には山田有信とともに高城を守り、開城後は都於郡に退去した。関ヶ原の際には義弘に従軍、敵中突破の退却戦を経て義弘とともに帰還した。
今川氏真
いまがわ うじざね
1538〜1614
義元の長男で、武田信玄の孫に当たる。父義元の死後は朝比奈信置ら家臣にも離反され家康・信玄の侵攻を支え切れず、永禄十二年五月、北条氏康のもとへ逃れて領国を失った。和歌を冷泉為和から、蹴鞠を飛鳥井雅綱からそれぞれ学び、後半生は武将というよりも和歌や蹴鞠に長じた文化人として生きた。
今川義元
いまがわ よしもと
1519〜1560
氏親の三男。太源雪斎に学び、異母兄である玄広恵探(げんこうえたん)との後継ぎ争いに勝ち(花倉の乱)駿河国主に。「海道一の弓取り」といわれ京風文化にも精通していたが、四万の大軍を率いての上洛途中に豪雨の桶狭間で休息中、織田信長勢二千による奇襲を受け戦死。
芋川正親
いもかわ まさちか
1539〜1608
名は親正とも。信濃水内郡芋川を本拠とした土豪で、越前守を称す。上杉氏のち武田氏に属し長篠合戦に参加。武田氏滅亡後は新領主森長可に反乱を起こしたが失敗、上杉景勝のもとへ身を寄せる。景勝の会津移封に伴い、陸奥信夫郡大森城主(城代)となった。
入来院重聡
いりきいん しげさと
生没年不詳
重豊の子で、薩摩入来院氏第十一代当主。名は「しげふさ」とも読む。薩摩隈之城を本拠とし、本領入来院の他に筑前・筑後にも領地を有した。永正年間の三国大乱ののち島津忠良・貴久に従い、天文六年の竹山砦攻めなどで軍功をあげた。
入来院重嗣
いりきいん しげつぐ
生没年不詳
重朝の子で、薩摩入来院氏第十三代当主。通称又五郎、加賀守を称す。島津氏の家臣でありながらも、北薩摩の有力国衆として独自に行動した。元亀元年、祁答院(けどういん)氏らいわゆる渋谷五族のうち、残った東郷氏当主重尚とともに所領を島津義久に献じ、改めて入来院清敷の領有のみ認められた。
入来院重時
いりきいん しげとき
? 〜1600
相州家出身で佐土原島津氏初代以久(ゆきひさ)の二男で、入来院重豊の養子となり同氏第十五代当主となる。通称は又六。義弘に従い朝鮮の役・関ヶ原に従軍。慶長四年の荘内の乱の際には、家康から叱責され釈明謝罪に上京した家久に同道。関ヶ原の後程なく歿し、家督は養子としていた島津義虎の子重高が嗣いだ。
入来院重朝
いりきいん しげとも
生没年不詳
重聡の子で、薩摩入来院氏第十二代当主。通称又五郎、石見守を称す。天文八年、島津忠良・貴久父子と薩州家島津実久が争った際には忠良側に付き、市来攻め・百次城攻めに従軍し戦功をあげる。しかし同十三年、祁答院(けどういん)・東郷氏らと謀反するとの噂により貴久から所領を没収され、翌年以降は忠良・貴久と戦った。
次の10人
INDEX
iモード戦国浪漫