加地春綱
かじ はるつな
生没年不詳
越後加地城を本拠とする揚北(あがきた)衆と呼ばれる国人で、上杉謙信の家臣。通称彦次郎、安芸守を称す。天正三年二月の「上杉家軍役帳」によると、百五十八人の軍役を負担、下越の国人衆では色部顕長、新発田長敦に次ぐ位置に名が見える。
梶原政景
かじわら まさかげ
1544〜1623
太田資正の次男で美濃守を称す。父資正が国府台合戦で北条氏康に大敗、これにより兄資高(氏資)から父とともに追放され佐竹義重を頼り、常陸柿岡城主となる。小田城を攻め落とすなど活躍するが、関ヶ原の後佐竹氏の秋田転封を機に越前の結城秀康に仕え、高齢ながら大阪の陣にも参戦した。
糟屋武則
かすや たけのり
生没年不詳
本姓は志村氏だが幼時に孤児となり糟屋友政に養育され、別所長治に仕えた。通称は正之助のち助右衛門、内膳正を称した播磨加古川城主。名は数正・宗重・真安・宗孝・真雄とも。天正五年に秀吉の小姓となり、賤ヶ岳七本槍の一人として数えられる。関ヶ原では西軍に加担し失領、のち徳川家に五百石で仕えた。
片桐且元
かたぎり かつもと
1556〜1615
直政の子で通称助作、東市正を称す。秀吉子飼いの武将で、賤ヶ岳七本槍の一人として知られる摂津茨木城主。秀頼の補佐役を務め、地味ながらも豊臣家安泰のため徳川方との交渉に奔走。しかし大坂の陣直前に淀君や大野治長らの首脳から家康内通の濡れ衣を着せられ、弟とともに大坂城を退去。大坂落城の後、京で自刃したと伝えられる。
片桐貞隆
かたぎり さだたか
1560〜1627
且元の弟で石見守。秀頼に近侍し大和小泉一万石の主。大坂の陣の際は兄と共に大坂城から退去し、後に徳川秀忠に仕える。石州流茶道の祖としても知られている。
片倉景綱
かたくら かげつな
1557〜1615
伊達輝宗・政宗二代に仕えた重臣で初名小十郎、通称は備中。政宗の近侍かつ伊達家の総参謀長的存在の白石城主。戦いの際には常に政宗の側にあり、行政能力にも優れた知勇兼備の名将。蘆名氏との決戦・摺上原の戦いでは伊達成実とともに先鋒を務める。政宗はもちろん秀吉や家康からも高く評価され、その死の際には家中で六名の殉死者を出したという。
片倉重綱
かたくら しげつな
1585〜1659
片倉景綱の子で白石城主。通称小十郎、名は重長とも。伊達家の重臣で父同様武勇に優れ、大坂の陣の際は先鋒を務め、道明寺口の戦いで大坂方の先鋒後藤基次・薄田兼相らの軍を撃破、「鬼の小十郎」と呼ばれた。妻は「敵将」真田幸村の娘於梅。
片平親綱
かたひら ちかつな
生没年不詳
大内義継の次男で槍の達人大内定綱の弟。はじめ蘆名氏に属したが、天正十七年に兄と共に伊達家に臣従。摺上原の合戦では兄定綱と共に旗本隊の左右を固めて奮戦。戦後には千石を与えられ、伊達家一族に列した。
桂 広澄
かつら ひろずみ
? 〜1524
安芸毛利氏の一族坂広明の嫡子で、弘元・興元に仕えた重臣。はじめ坂姓だったが郷野村大桂に中山城を築いて移り住み、桂氏を名乗る。大永3年の元就家督相続時に、従兄弟の長門守広秀が庶弟元綱の謀反に加担したため、責任を取って翌年自害したという。
桂 元澄
かつら もとずみ
1500〜1569
広澄の嫡子で、毛利元就の重臣。父広澄が自害したときに弟元忠とともに中山城に籠城したが、元就の説得を受けて思いとどまり、以来忠実な家臣として活躍。のち桜尾城将となり、元就の命を受け陶晴賢に偽って身を寄せ、厳島におびきだす大功を立てたことで知られる。
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