桂 元忠
かつら もとただ
生没年不詳
広澄の二男で、毛利元就の重臣。父広澄が自害したときに兄元澄とともに中山城に籠城したが、元就の説得を受けて思いとどまり、以来忠実な家臣として活躍。のち元就の側近となり、五奉行制が敷かれた毛利隆元の下ではその奉行の一人として重責を担った。
葛山氏元
かつらやま うじもと
生没年不詳
中務大輔氏広の子で、今川氏真の重臣。通称は八郎、のち備中守を称した駿河葛山城主。駿東郡の領内で在地領主制を展開し、家中でただ一人印判を発行するという特異な地位にあった。のち武田信玄に内通するが程なく没落、娘婿となった信玄六男の信貞が家督を嗣いだ。
加藤清正
かとう きよまさ
1562〜1611
清忠の子で幼名虎之助、主計頭。秀吉子飼いの勇将で賤ヶ岳七本槍の一人。「虎退治」など数々の逸話を残す。築城の名人として知られ、後の居城の熊本城は難攻不落の名城として特に有名。大坂の陣の前に豊臣秀頼が二条城で家康と会見した際に警護役として随行、帰国直後に謎の急死。ために毒殺説が囁かれたが詳細は不明。
加藤忠広
かとう ただひろ
1601〜1653
清正の子。幼名虎藤(丸)、肥後守。元和四年に内紛が起こるが家中をまとめられず、寛永九年に改易され肥後国は没収。酒井忠勝預かりとなった忠広は出羽庄内で一万石を与えられ、二十年以上配所で過ごし承応二(1653)年に病没。
加藤光泰
かとう みつやす
1537〜1593
遠江守。美濃の地侍出身で最初は斉藤龍興に仕え、後に秀吉の下で甲府二十四万石の主。秀吉の家臣として朝鮮(文禄)の役の際に渡海し活躍したが、帰国途中に急死。
加藤嘉明
かとう よしあき
1563〜1631
秀吉子飼いの家臣で賤ヶ岳七本槍の一人。豊臣水軍を指揮し四国・九州征伐や小田原攻めに活躍、朝鮮の役では舟奉行を務めた。後に家康の下で会津四十万石の主。
神余親綱
かなまり ちかつな
? 〜1580
隼人佐。越後三条城主。上杉謙信の家臣で雑掌役、すなわち京都にあって主に上杉家と朝廷・公家・幕府との折衝役を務めた。御館の乱の際には景虎側につき、景虎滅亡後も抵抗したため前城主山吉豊守の家臣に殺害され落城したという。
金森長近
かなもり ながちか
1524〜1608
初め通称五郎八、後には法印。美濃国土岐氏の出自で初めは織田信長の家臣、本能寺の変後に飛騨国主となる。茶や蹴鞠など諸芸に長じ、飛騨高山・越前大野などの城下町も建設した。
可児才蔵
かに さいぞう
1554〜1613
名は吉長。森長一に始まり数家の渡り奉公の末、最終的には福島正則家臣となる。宝蔵院流槍術に長じ、関ヶ原の際には取った首に笹を噛ませ「笹の才蔵」の異名を取る。少年時より愛宕権現信仰が強く、常々愛宕の縁日に死ぬとの予言通り、慶長十八年六月二十四日に死を迎えたと伝えられる。
兼松正成
かねまつ まさなり
1563〜1640
徳川家康の臣で通称又四郎。又四郎正吉の子ではじめ信長に仕え、本能寺の変後は信孝に属し二百貫文の地を領した。のち信雄のもとで四百石を知行、小牧長久手役の際には自領の美濃嶋村を堅守。慶長二年以降家康に仕え五百石を領し、のち秀忠のもとで大番組頭を務め、元和二年より尾張義直のもとに移る。父正吉没後は遺領を継ぎ二千石を領し、六百石を弟正廣に分け与えた。寛永十七年九月二十三日没、法名英公。
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