川上忠克
かわかみ ただかつ
生没年不詳
薩摩島津氏一族栄久の子で通称又九郎、上野介を称す。貴久・義久の老中職。はじめ薩州家実久に属し串木野城を領したが、天文八年実久が貴久に串木野城を明け渡し降伏、以後貴久に属した。天文十五年には義久の元服に立ち会い、同二十一年には兵道書を記す。さらに同二十四年には自領中村白山権現の再興に尽くしたという。
川上忠智
かわかみ ただとも
生没年不詳
島津氏の重臣で、義弘の飯野城時代の家老。忠興の子で通称左京亮、三河守を称す。日向高鍋・栗野・大隅馬越・蒲生地頭。天正八年の肥後矢崎綱田城攻めや天正十二年の島原合戦で活躍した。特に島原合戦(沖田畷の戦い)では龍造寺隆信の首を挙げたとされるが、一説に首を挙げたのは子の左京亮忠堅ともいう。
川上久朗
かわかみ ひさあき
1536〜1568
薩摩島津氏一族の重臣で、義久の老中職。忠克の子で兄忠頼の早世により家督を相続、通称源三郎、左近将監を称す。弘治元年の蒲生合戦では大隅北村城戸で、また永禄四年の大隅廻城攻めにも日夜奮戦。しかし同十一年の菱刈氏との薩摩大口城の戦いで苦戦に陥った義久を身を挺して守り負傷、鹿児島へ戻り着くがその傷がもとで歿した。
川島宗泰
かわしま むねやす
生没年不詳
豊前守。はじめ二階堂氏に属していたが、天正十七年伊達政宗に臣従、これより川島姓を名乗った。紺幌一騎の一人で武勇に優れ、文禄の役などで活躍した。また仙台築城や江戸城外堀普請では奉行を務めたという多才な武将。
川尻秀隆
かわじり ひでたか
1527〜1582
織田信秀・信長の家臣で黒母衣衆筆頭の猛将。通称は与兵衛、肥前守を称す。姓は河尻とも書き、名は鎮吉とも。武田勝頼滅亡後に甲斐国を領したが、その直後に信長が本能寺で倒れたため国内が騒然となり、一揆に襲われ最後は武田の遺臣三井弥一郎に殺された。この一揆を家康の煽動謀略と見る説もある。
川尻秀長
かわじり ひでなが
? 〜1600
秀隆の子。豊臣秀吉の家臣で通称は与四郎、肥前守を称した美濃苗木城主。名は直次とも。秀吉の臨終の際には遺品として守光の名刀を賜る。関ヶ原の際には西軍に加担して伏見城攻撃に参加、決戦で討死にしたとも、近江膳所で梟首されたともいう。
河隅忠清
かわずみ ただきよ
生没年不詳
越中守、上杉謙信・景勝の家臣。元亀三年、謙信が織田信長と共に武田信玄に当たる旨の誓紙交換の際、直江景綱らと信長の使者を接待した。御館の乱の際には景勝側につき、また謙信の菩提を弔うため高野山に黄金を寄進したという。
河田重親
かわだ しげちか
生没年不詳
伯耆守。上杉謙信の家臣で関東の要衝沼田城の守将を務める。主に諜報活動に従事して北条氏康との越相同盟締結時に活躍したが、御館の乱の際には景虎側について景勝と争い、景虎滅亡後に北条氏の家臣となった。
河田長親
かわだ ながちか
? 〜1581
豊前守。上杉謙信の重臣で初めは魚津城主、後に松倉城主に。謙信の側近として信頼が厚く越中の代官として活躍、主に対一向一揆戦などで越中諸将を統括、指揮を執った。謙信没後は景勝に従い、越中国において信長侵攻軍と戦った。
川田義朗
かわだ よしあき
? 〜1595
島津氏家臣で、義久の軍師。薩摩川田城主川田氏第十二代で通称掃部助、駿河守を称す。大隅垂水地頭。伊集院忠朗に兵学を学び、天正四年の日向高原攻め以来義久のもとで泰平の吐気、開戦日取りの占いなど、いわゆる本来の意味における軍師として活躍した。
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