吉川元春
きっかわ もとはる
1530〜1586
毛利元就の次男で山陰方面の統治を任され、山陽方面を任された弟の隆景と「毛利両川体制」の一翼を担って当主輝元を補佐した毛利家武闘派筆頭の猛将。上月城攻めでは降伏した猛将山中鹿介を護送途中に謀殺。徹底した秀吉嫌いで知られ、その九州島津攻めの際に嫌々参加したが小倉の陣中で病死した。

木戸忠朝
きど ただとも
 ? 〜1574?
伊豆守。はじめ河田谷右衛門大夫と称す。武蔵の国人で羽生城主木戸範実の子で、上杉謙信の関東進出時にその麾下となる。成田長泰が背いたときにはその監視役を務めたが、羽生城はたびたび北条方の攻撃を受け、維持困難と見た謙信が破却した。

木下勝俊
きのした かつとし
1569〜1649
家定の長男で、北政所(秀吉の妻)の甥。近親ということもあり幼少時より秀吉に仕え、のち羽柴姓を許されて羽柴若狭侍従を称す。さらに官位は参議まで昇るが、関ヶ原の際西軍に属して失領、剃髪して京都東山に退隠して長嘯子(ちょうしょうし)と号す。和歌に堪能で近世和歌の祖といわれ、『挙白集』を残した風流人。

木村重成
きむら しげなり
1593〜1615
豊臣秀頼の臣、長門守。木村常陸介の子ともいうが定かではない。大坂の役の際に一方の大将を務め、井伊直孝軍と河内若江にて交戦して戦死。非常な美男子と伝えられ、報に接した城内の婦女子は皆泣いたという。また徳川方の首実検の際に、兜の緒が切られ、さらに名香が焚き込められていたことから敵方の諸将にもその武者振りを賞賛されたという。

木村吉清
きむら よしきよ
 ? 〜1598
伊勢守。はじめ明智光秀に仕えたが、山崎合戦以降は秀吉に仕える。諱は清久とも。秀吉の小田原討伐後に奥州葛西・大崎で三十万石を与えられるが、翌年に同地で一揆が起きたため所領を没収され蒲生氏郷の与力となった。蒲生氏の宇都宮移封に際して同氏の下を離れ、豊後で一万四千石を領した。

肝付兼続
きもつき かねつぐ
1511〜1566
兼興の子で大隅の有力国人肝付氏第十六代当主。天文二年に家督を嗣ぎ、はじめは天文八年の市来攻めにも従軍するなど島津氏と友好関係にあったが、永禄四年、宴席で島津氏重臣伊集院忠朗が兼続の家臣薬丸氏に鶴の羮(あつもの)を勧めたことに腹を立て(鶴は肝付氏の家紋)、一転して島津氏と衝突。島津忠将を討ち取るなど日向伊東氏とも連携して奮戦するが、永禄九年に本城を落とされ、翌日自刃した。

肝付兼寛
きもつき かねひろ
1558〜1590
島津義久の家臣。貴久・義久の家老を務めた兼盛の嫡子で、父の後を継いで大隅加治木城主となり一万五千石余を領した。通称は三郎五郎、弾正忠を称す。義久に従い、天正八年以降肥後・肥前攻めに従軍して軍功をあげた。また上井覚兼から「雨宝童子之法」の秘伝を伝授されたという。

肝付兼演
きもつき かねひろ
 ? 〜1552
兼国の子で大隅の有力国人肝付氏庶流。通称は三郎五郎、越前守を称す。本家が島津氏と対立する中で早くから忠良に通じ、大永七年に帖佐、また享禄二年には大隅加治木を与えられた。一時薩州家実久に通じ忠良・貴久と抗争するがのちに和睦、天文十八年に加治木領を安堵された。

肝付兼盛
きもつき かねもり
1533〜1578
兼演の嫡子で通称は三郎五郎、弾正忠を称す。島津貴久・義久の家老で大隅加治木城主。天文十八年に父兼演とともに貴久に服属し加治木領を安堵され、以後蒲生攻めや日向伊東氏攻めに従軍し軍功をあげ、永禄十一年には忠良から特に軍功を賞された四人のうちの一人に選ばれたという。

京極高次
きょうごく たかつぐ
1563〜1609
足利義輝・義昭の近習高吉の長男。通称は小兵衛、若狭守・羽柴京極侍従のち大津宰相を称す。本能寺の変の際に明智方に加担し旧領復活を策すが失敗、妹を秀吉の側室に差し出し赦された。関ヶ原では一時西軍に属すが、翻意して大津城に籠城。しかし立花宗茂の猛攻の前に剃髪して開城した。戦後家康より若狭小浜八万五千石を与えられた。

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