小出吉政
こいで よしまさ
1565〜1613
秀政の子で通称小才次、信濃守・大和守・播磨守と称す。初め播磨龍野城主、のち加増転封され但馬出石六万石の城主となる。関ヶ原の際には西軍に属し丹後田辺城攻撃にも加わるが、戦後東軍に属した弟秀家が戦功を挙げたため失領を免れた。

河野通直
こうの みちなお
 ? 〜1587
伊予守。三好・長宗我部両氏の侵攻に苦慮し、なんとか支えていたがついに長宗我部元親に降伏。しかし時を置かず秀吉の四国攻めに遭い、再び降伏。この結果所領は没収され、伊予の名族河野氏は滅亡する。

高坂昌信
こうさか まさのぶ
1527〜1578
春日大隅の子で通称弾正。武田信玄の奥近習上がりの重臣で、信州小諸城代を経て海津城代となり、川中島の合戦で活躍した。「甲陽軍鑑」の原著者として知られ、その中に自分を評して「遁(に)げ弾正」と書いていることでも有名。天正六(1578)年五月七日、海津城で病没。


高力清長
こうりき きよなが
1530〜1608
徳川家康の家臣。河内守。岡崎三奉行の一人で、三河一向一揆との戦いの折り土呂義宗寺の仏像や教典を戦禍から守り、のち赦免された人々にこれを返したことから「仏高力」と呼ばれる。また造船の才もあり、朝鮮の役の際には家康渡海用の船を造った。

桑折政長
こおり まさなが
1556〜1593
宗長の子で、伊達政宗の家臣。勇武の士と伝えられ、文禄の役の際には政宗に従って渡海したが、病を得て父に先立ち朝鮮釜山浦で病死した。政長には子がなかったため、義弟石母田景頼が桑折家を継いだ。

桑折宗長
こおり むねなが
1532〜1601
奥州守護代定長の子で播磨守、伊達家の家臣。家督予定の養子(稙宗の子)四郎が早世したため、出家して覚阿弥となっていた宗長が還俗して家を継いだ。郡山の役では軍奉行を務め、摺上原の合戦では子の政長とともに出陣し、戦功を挙げた。

国分盛重
こくぶん もりしげ
1553〜1615
通称彦九郎、三河守。伊達晴宗の十男で、政宗の叔父。仙台国分荘の豪族国分能登守盛氏の養子となる。人取橋の合戦で戦功を挙げ、天正十八年には蒲生氏郷の人質となり名生城に赴く。慶長四年に盛重の行動を疑った政宗が殺害を図ったため佐竹氏の下に出奔、以後佐竹家臣として横手城に居住したという。

小倉賢治
こくら かたはる
 ? 〜1564
通称右京太夫、名は実澄とも。近江愛知(えち)郡の土豪で、もとは六角義賢家臣の近江高野城主。当時上洛中の信長が美濃の斎藤義龍の放った刺客に襲われた際、その帰国時の道案内として協力。しかし一族は1564年六角義賢と対立、その責任をとり自害した。

小嶋国綱
こじま くにつな
生没年不詳
通称甚介、越中神保氏の家臣でのち上杉謙信に属した。槻尾甚介ともいう。天正五年の上杉軍団八十一名の中に名が見えるが、詳しい事績は不明。一説に寺嶋職定の弟で婦負郡大道城に拠ったとも言われるが、これも確証に欠ける。

小嶋職鎮
こじま もとしげ
生没年不詳
通称六郎左衛門尉、越中神保長職の重臣で、のち上杉謙信に属す。永正十七年の神保慶宗敗死後に寺嶋職定と共に長職を助け、神保家再興に尽力。謙信没後は一時織田勢に従うが、天正十年神保長住を富山城に監禁して上杉景勝に降り、織田勢の背後を衝こうとするが失敗。以後の消息は不明。

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