五代友喜
ごだい ともよし
1539〜1626
島津氏家臣。義弘の家老で日向馬関田地頭、名は友慶とも書く。通称は勝左衛門、右京亮を称す。元亀二年、日向伊東氏との木崎原の戦いで、義弘に属し伏兵として野間門に配置され、奮戦の末に敵将伊東加賀守を討ち取った。のち豊臣秀吉の小田原攻めにも従軍した。
児玉就方
こだま なりかた
1513〜1586
元実の三男で通称内蔵丞、周防守を称した毛利元就の家臣で瀬戸内水軍城草津城主。若い頃は猛将として知られ、吉田郡山合戦以来数々の戦功を挙げた。後に旧安芸武田水軍河ノ内衆を率いて毛利水軍の提督となる。この後は水軍の将として対大友・尼子戦に活躍した。
児玉就忠
こだま なりただ
1507〜1562
元実の二男で通称三郎右衛門、毛利元就の家臣。同族家行の養子となり家督を嗣ぐ。軍事面よりも行政手腕に優れていたことから元就の信頼を受けて側近を務め、後に隆元の下でも五奉行の一人として活躍した。
木造具政
こつくり ともまさ
生没年不詳
伊勢国司北畠具教の弟で伊勢木造城主。織田信長の伊勢侵攻時に事前に信長に内通、具教と信長の間に立ち和睦を整えた。後の小牧の役の際信雄に属して秀吉と戦ったことから所領没収して追放され、その後の消息は不明。
五島純玄
ごとう すみはる
1562〜1594
元は宇久姓で肥前国五島列島の主。朝鮮の役の際、軍船を率い小西行長に属して転戦したが、陣中にて天然痘にかかり病没。
後藤賢豊
ごとう かたとよ
? 〜1563
通称但馬守。近江六角氏の譜代家老で、進藤山城守賢盛とともに「六角の両藤」と呼ばれた実力者だったが、彼の存在を煙たく思った六角義治に謀殺された。これに怒った進藤賢盛を中心とする家臣達は観音寺城外へ退去、世に言う「観音寺騒動」が起きた。
後藤高治
ごとう たかはる
? 〜1589
通称喜三郎、名は定豊とも。但馬守賢豊の次男で、観音寺騒動後に一旦六角氏と和睦したが、織田信長の足利義昭擁立上洛時に進藤賢盛らとともに信長に臣従。1578年の安土相撲大会では奉行を務めた。本能寺の変の際には明智方に属すが、後に蒲生氏郷に仕えた。
後藤信康
ごとう のぶやす
? 〜1614
伊達政宗家臣。通称孫兵衛、のち肥後守。湯目重信(重弘とも)の次男で、後藤信家の養嗣子となる。知略を備えた勇将で政宗の軍奉行を務め、常に黄色の母衣を背負って勇戦したことから「黄の後藤」、また「高坂弾正の再来」とも称された。佐沼の役では敵将山上内膳を一騎討ちで倒すなど数々の逸話を残した。
後藤基次
ごとう もとつぐ
1560〜1615
播磨別所氏の家臣・基国の子。通称又兵衛。別所氏の滅亡後は黒田孝高に仕え、「黒田八虎」の一人に数えられる黒田家の名臣。その後当主の長政と対立して出奔するが、新たな仕官先の大名家にことごとく長政から「奉公構い」が出されたため、乞食にまで身を落とした。大坂の陣の際は豊臣秀頼の招聘により入城、真田幸村とともに事実上の総大将格となる。夏の陣で道明寺にて激戦の末に銃弾を浴びて戦死。
小西行長
こにし ゆきなが
? 〜1600
堺の有力商人・隆佐の次男で元は魚(とと)屋弥九郎と称した宇喜多家家臣。受洗名アウグスティヌスを持つキリシタン大名で後に摂津守を称し、石田三成と親交があった。関ヶ原の際には三成とともに西軍に属し、敗れて伊吹山中で捕らえられ京都六条河原で斬首された。
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